〈混ざり仔〉



 〈鳥の子〉。
 それは鳥と人との間に生まれた〈混ざり仔〉のことを指し示す。

 ――ある日、有翼人の夫婦の間に〈鳥の子〉が生まれた。
 〈鳥の子〉だと分かったのは〈鳥の子〉の特徴ともいえる翼の耳を持っていたからだ。
 有翼の民は背に一対の翼を持ち、生まれてくる。
 しかし〈鳥の子〉は背に翼を持たず、耳が翼へ変化して生まれてくる。
 それを有して生まれた赤子を、誰もが驚愕の眼差しで見つめた。

 同時に、歓喜の声を上げた。
 周囲は彼女を見て確信したのだ。


 この赤子は〈先祖還り〉だと。


 ――――遠い昔のことだ。
 まだ〈渡り鳥〉の民――有翼人が生まれるよりも前。
 鳥も人もお互いがお互いを助け合い、日々を過ごしていた時代。
 それは、鳥と人とが共存していく中で確立されたもの。

 鳥族からは一人の男が。
 人族からは一人の女が。

 和親の誓いとして選出された。
 最初こそ男も女も戸惑ってはいたが、時を重ねていくうちにお互いは惹かれあい、愛情を育んでいった。
 そして、その二人の間に子供が生まれた。
 それが〈鳥の子〉だった。
 〈鳥の子〉は和親の象徴。
 鳥族も人族も、皆等しく共存していくための偶像。
 鳥は人を襲わず、人は鳥を襲わず。
 そんな暗黙の誓いを元に、双方が出した契約の為に生まれ出た存在。
 鳥族も人族も、その〈鳥の子〉を崇拝した。

 しかし、人とは愚かなもので。
 親から子へと受け継がれていく記憶は徐々に薄れていき、彼らは誓いを忘れていった。
 ――そして、次第に人族は鳥族を襲うようになった。

 空を翔る鳥は次々に射ち落とされ、彼らは大いに嘆いた。
 あの契約とは何だったのか。
 何の為に和親の誓いを誓ったのか。


 ――共存という道は、もう無くなってしまったのか!


 喪われてしまった契約は何の意味もなく。
 鳥族は人族に見つからないように身を隠し、静かにひっそりと暮らすしか生きる術がなかった。

 ――――後に、鳥族の子孫として生まれてきたのが〈渡り鳥〉。
 この時はまだ名も無き有翼人の民。
 彼らもまた流れ往く時の中で次第に誓いを忘れていった。崇敬する存在を知っていても、その意味を本当に理解している者は少ない。
 だが、昔からのしきたりとは恐ろしいもので意味はなくとも形は残る。
 〈鳥の子〉は敬う存在でありながら、誰もが“彼女”自身を見ようとはしなかった。



   □   ■   □



 幼い頃、ノエルは自分自身が周りとは違うことを肌で感じていた。
 誰もが自分に向ける視線が恐ろしかった。過度の崇拝の眼差しは、幼い彼女にとって恐怖でしかなかったのだ。
 ただ、両親だけが哀しい眼差しを送っていたけれども、救いの手を差し伸べてくれることはなかった。
 大人はこわいもの。両親でさえも、誰も信じられる存在はいないと、この時は思っていた。
 ノエルは、自分自身を守ることで精一杯だった。

 ――月日が経ち、彼女は成長すると同時に多くの知識を手に入れた。
 自分が〈鳥の子〉であること。
 向けられる視線の意味。
 誰もが見ている自分ではない“自分”の存在。
 両親の哀しい眼差しも、民の中で異質な自分を憐れむものだったのかもしれない。
「……ごめんな」
 父のその言葉が、いつも耳の奥に残っている。
 父は鳥の血を色濃く残していたと、後になって聞いた。
 だからだろう、自分という〈鳥の子〉が生まれた。
 父の温もりを感じることができたのはそれが最後である。
「助けられなくて、ごめんなさい」
 母の涙が、いつも瞼の裏に残っている。
 そして、ある日を境に父の姿を見なくなった。母からは亡くなったのだと聞かされた。
 どうして亡くなったのかを聞いてもはぐらかされてしまった。

 父と母が隠しているもの。
 知らなくてもいいもの。
 ……知りたくなかったもの。

 多くの知識と現実は、自分の存在を縛りつけるだけだった。



 ――それが変化したのは、いつのものように一人で図書館に行った、ある日のことだった。

「……あれ」
 いつもと変わらない時間に、いつもと変わったものがあった。
 思わず本棚の影に隠れたノエルは、こっそりと顔を半分だけ出して、それに視線を向けた。
 そこにいたのは、自分とあまり変わらない年齢であろう少女の姿。彼女は何かをしているらしく、俯いたままで手元だけが動いている。
「……」
 少女がしていることが気になる。
 けれど、ノエルはそっと本棚の陰に戻った。いつも周りから向けられる視線と同じものを、少女から向けられたら嫌な気分になる。
 溜め息を一つ吐いて、彼女に見つからないように出口へ向かった。
 ……それにしても、この場所で図書館の主人と自分以外の誰かを見るのは、初めてだった。
 この図書館は、民の中で博識な知識を持つ人が建てたものだ。いろいろな場所から本を集めては、この建物にしまいこんでいる。そしてそのほとんど趣味のようなそれを、誰もが読むことができるように開放してくれている。
 そんな風変わりな図書館の主人は、民の中で数少ないノエルを“ノエル”として見てくれる存在の一人だ。
 彼は変わり者として有名――だからか、開放しているこの場所に立ち入る人はいない――だが、ノエル自身はそんな彼に感謝していた。
 自分を“自分”として見てくれない劣等感を、ここでは感じなくてすむ。
 ノエルにとって、この図書館は誰にも見られずに落ち着ける場所だった。

 そこに、見慣れぬ一人の少女。

 日常が崩れていきそうな恐怖感に、ノエルは胸元をぎゅっと握りしめたのだった。



   □   ■   □



「ノエル嬢や」
 いつものように図書館で本を読んでいたノエルは、呼びかける声に本から視線を上げた。
 いつの間に隣にいたのだろう、傍らには初老の男が立っていた。
 彼の存在に全く気付かなかったことに驚きつつ、ノエルは笑顔を向ける。
「リベルドさん、どうしました?」
 彼こそがこの図書館の主人。ノエルを“ノエル”として見てくれる数少ない人たちの一人だ。
 たわわな銀の髭を撫でながら、にこりと微笑みかけてくる。
「ちょっといいかの? 手伝って欲しいことがあるのじゃが」
「私でよければ、いいですよ」
 ノエルは読んでいたページに栞を挟んで机の上に置いた。椅子から立ち上がると、リベルドの隣に移動する。
「何をすればいいんですか?」
「とりあえず、ついて来なさい」
 いつもならば用件を話してから手伝いがはじまるのに、今回は違うようだ。
 そのことに首を傾げながらも、歩き出してしまったリベルドの後をついていく。
 てくてくと歩いていくと彼は隣の部屋に入っていった。確か、あそこの部屋には古い書物が多く保管されている場所だったはず。
 暫く歩みを進めていくリベルドは、ある一角で足を止めた。
「ちょっとここで待っておれな」
 そう言い残して、リベルドは来た道を戻っていた。
 一人取り残されたノエルは、彼の指示に従ってここに留まる。彼が戻ってくるまで暇を持て余すのもなんなので、ぐるりと辺りを見渡して目に入った一冊を引き抜いた。
 それは古い書物だ。表紙には本のタイトルが書かれているようだが、見たことの無い文字で読めなかった。
「うーん、ここで何をするんだろう」
 彼が戻ってくるまで何か本を読んで時間を潰そうと思っていたが、何冊か手に取ったもののその全てが彼女の知っている文字とはかけ離れていて、読むことすらできなかった。
 どうしたものかと悩んでいる時、遠くから足音が聞こえた。どうやら彼が戻ってきたようだ。
 持っていた本を元の場所に戻しながら顔を上げる。
「遅かったで――――」
 しかし、現れたその人物は彼ではなかった。
「あ、あの」
 ――いつも見ていた、あの少女だった。
 何故、彼女がここにいるのだ。
 思わず笑顔を消してしまったのは、半ば反射に近い。
「リベルドさんは?」
 そう問いかけると、彼女は右に左に視線を彷徨わせながら答えた。
「え、あ、あのですね、ちょっとまだ時間がかかるみたいで……」
 困惑している少女に、ノエルは舌打ちしたい気分だった。
 折角リベルドさんの手伝いができると思っていたのに、彼女がいるならば私は、あまりこの場にはいたくなかった。
 他人の目は怖い。ノエルは彼女を直視することができずに下を向いてしまった。
「あの!」
 色々と考えていたノエルの耳に、少女の声が響く。恐れを感じながらも彼女に目を合わせると、その緑の瞳は真っ直ぐこちらに向けられていた。
「?」
 ――――その真っ直ぐな視線は、自分の知っているものとは違った。
「わたし、ポエっていいます。よかったら、友達になってください」
 彼女の言っている意味が、分からなかった。
「……いきなり、なに?」
 その言葉の意味を理解した瞬間、目も眩むような怒りを覚えた。苛立ちが募り、思わず拳を震わせる。
 友達になってください?
 ――私は、友達なんて必要ない。
 すっと表情が消えたのが分かる。目の前にいるポエの顔が強張ったのが、その証拠だ。
「何でいきなりそんなこと言われなきゃいけないの」
 ――私はあなたのことなんて何も知らないのに。
 ノエルの辛辣な言葉に、少女――ポエも驚いたのだろう、大きく見開いた瞳が凍りついた。
 それを見た瞬間、ちくりと胸が痛んだような気がした。その痛みに知らない振りをしながら、ノエルは歩き出す。

 一刻も早くこの場所から立ち去りたかった。

「あ、待って!」
 彼女の横を通り過ぎようとした瞬間、腕を捕まれた。それに少し苛ついて、思わず彼女を睨んでしまった。
 びくっと肩を揺らして縮こまるポエは、しかしその手を離すことはなかった。
 ――手を離してくれたら、この場から立ち去ることができたのに。辛辣な言葉を言えば、彼女は幻滅して離れていくと思ったのに。
 ……何度、これを繰り返したのだろうか。
「いきなりで、ごめんなさい! 驚いたよねっ」
 彼女の言葉に面食らったのは言うまでもない。それはもう、心底驚いた。
 いきなり仲良くしてと言われて「はい、よろしく」なんて答えられるほど、自分は簡単に人を信用することができない。
「でも、私はあなたのことを知りたいの」
 あなたと、仲良くなりたいの。
 その台詞を聞いて狼狽えてしまった。新緑の瞳は、ただ真っ直ぐにこちらを向いている。
 ――大人たちが向けてきたものとは違う、純粋な眼差し。今まで感じたことのない、暖かい何かが胸中から溢れだしてくる。
 違う。そんなものは欲しくない。私はいつだって一人で、これからもずっと独りで生きていくしかないんだと、そう思い続けてきた。
 この里の中で唯一、異端として生まれてしまった自分。誰もが自分を見ないで偶像を崇めるが如く、恐ろしいほどの敬意を向けてきた。
 私は、そんなものはいらなかったのに。
 欲しかったものは――――
 胸に湧いた、一つの想い。
「――……いまさら、そんな」
 そう、今更だ。
 こんなことを思うだなんて……いつかは離れていくのに。
 離れていくのならば、いっそ自分から離れてしまえば、こんな辛い思いを――――
「そんな顔しないで」
 高い少女の声に、はっとして我にかえる。
 いつの間にか、目の前にはポエの悲哀に満ちた顔があった。
「そんな顔って……どんな顔よ」
 いつものように取り繕って、いつものように声を出したつもりなのに、何故か少女は眉根を寄せたまま。
 ただ、それだけなのに……胸が痛い。
「辛そうな顔してる」
 ともすれば泣き出しそうな顔をしているポエを見て、ノエルは内心苦笑した。
 ――……そんなの、あんたもじゃない。
 今、自分がどんな顔をしているのか見ることができない。
 けれど、彼女の言っている意味は何となく分かった。
 辛そうな顔。
 きっと、いつも誰かを遠ざけるたびにそんな顔を、私はしていたのだと思う。
 だって、それ以外に自分の心を傷つけずにいられる方法なんて知らなかったのだ。他人に期待し近寄れば、それは上辺だけのもので。それでも望みは捨てられずに一緒にいれば、次第に離れていった。
 その度に、自分の心が傷ついていった。
 だから、自分が傷つく前に手を打った。
 自分から遠ざかることで空虚な想いを、心の奥底に沈めることができたのに。
 なんで……―――
「――……なんで、よ……」
 ぼろぼろと溢れだした涙に、思わず息を詰めた。
 止まれ、止まれと強く目元を擦るが、一度溢れてしまったものは止まることなく流れ続ける。
 泣くところなんて見せたくないのに、足の力が抜けて、ノエルはその場にへたり込んでしまった。
「……だいじょうぶだよ」
 柔らかな声と、あたたかなぬくもり。
 手で目を覆い隠しているから見えないが、ポエが目の前でしゃがんだのが分かった。
 同時に、頭に落とされるぬくもりのある手。
 それがさらに拍車をかけた。どん、と体当たりするかの勢いでノエルはポエにしがみついた。間近に感じられるぬくもりが、心の痛みを緩やかに溶かしていくような気がしたのだ。
「大丈夫だよ」
 ――大丈夫って、何が大丈夫なのよ!
 声をあげて反論したいのに、出てくる声はしゃっくりだけで。
 いたたまれない気持ちになりながらも、心はどこか穏やかで、とても凪いでいた。

「…………ごめん」
 あれからずっと泣き続けて、今やっと流し切ったのか出なくなった。
 ふと、今まで感じていなかった羞恥を覚えて、ポエから体を離す。一体どれほどの時間しがみついていたのだろうか……先ほどまでの出来事は、できれば記憶の彼方に忘却したいぐらい恥ずかしいので忘れてしまいたい。
 でも、何故か少女の言った言葉に、不思議と安心を覚えた。
「なにが?」
 こてん、と首を傾げて問いかけてくるポエに、ノエルは拍子抜かれた。
「えっ、だから、その……突然泣いて……」
「……だいじょうぶ?」
 また、だ。
 その声に、その言葉に、安堵を覚えるのは何故だろう。
「……なにが、だいじょうぶなのよ」
 泣いていて言えなかった言葉を、口に出して言う。
 すると、そんなことを聞かれるとは思っていなかったのか、ポエはうーんと唸りながら黙りこくってしまった。
「――……いつも外では、辛そうな顔……してたから」
「……え?」
 いつも、外では……?
 ポエと会ったのはつい最近で、会うのもここだけのはずだ。
 しかも話したのは今回が初めてである。
 彼女は、今にも泣きそうな顔をしながらも話してくれた。

 ポエ曰く、ノエルを見つけたのは随分と前のことだそうだ。
 普段通っている織物の店に行くと、知らない子がいた。
 その子はアゼイリアとよく笑っていた。何を話しているのか、話に混ざってみたかったけれど、何故だかそれはできなかった。
 その子を見かけてから数日のこと。その子の姿を何度となく探したが見つからない。
 行く場所なんて限られているはずなのに……どこにもその姿はなかった。
 まさか見間違いだったのか、なんて思いを抱きながら久しぶりに図書館に行ったその日。
 ポエは、彼女を見つけたのだ。
 紫色の髪。髪からのぞく小さな翼の耳。
 あの子だと確信した。
 話しかけようとして、けれどそれはできなかった。
 ――彼女が、ひどく痛々しい顔をしていたからだ。
 何故あんな表情をしていたのかは分からなかったが、結局、その日もまた話しかけることはできなかった。
 それから行ける日には必ず、図書館に通うことにした。
 彼女を見つける確率が高いのはそこだと思ったからだ。
 けれど、いざ彼女を見つけたとしてもなんと話しかけてよいのか分からなかった。
 本を読むふりをしたり、道具を持ってきて手芸をしたりして、彼女を見ていることしかできなかった。
 そんなある日、図書館に入ろうとしたところで彼女を見つけた。
 いつも一人の彼女が、今日は誰か大人と一緒にいたのだ。珍しいなと思ったのだが……彼女の浮かべる表情は、何の情も浮かんでいない冷めたものだった。

 話を聞いていくうちに、なるほど、とノエルは思った。
 ポエの話した大人というのは、たぶん母に詰め寄ってくる奴のことだ。
 消息を絶った父。〈鳥の子〉と敬われる自分。
 そいつらの声は、その全てを捨てろという、悪魔の囁き。

 ――――後に知ったことだったが、昔は〈鳥の子〉の数はあまり少なくはなかったらしい。それほど数は多くはなかったようだが、そのことでいささか問題が起こったそうだ。
 こんなにも〈鳥の子〉が多いのは、人と鳥との調和が崩れているからではないか。少しでも減らさないと、災いが起こるのではないか。
 そんなことありはしないのに。ひとつの不安が多くの恐怖を生み出し、まるで伝染病のように広がった。〈鳥の子〉は家の外に出たら畏怖の視線を向けられ、石を投げられた。〈鳥の子〉を持つ家族もまた、同じような目に遭った。
 どうしたらいいのだろう。
 そう悩んだ末に出た答えが、命を還すことだった。
 天界へとその生命を還せば調和は保たれ、歪みは正される。彼らはそう信じた。
 それのせいで何人もの〈鳥の子〉が命を落としていった。
 彼らの言う調和が保たれたのか、災いが起こらなかったのがこれのせいなのかは、結局のところ分からなかったけれど。
 今の時代、ノエルのように〈鳥の子〉が生まれるのは珍しい。
 それ故に、その記憶も徐々に薄れていったはずだった。それでも、その古いしきたりを覚えている人が、ノエルとその家族の元へ訪れていたのだ。

 ――ノエルを、彼女の命を天界へ還すようにと。

 けれど、母はそんな奴らに怒り、声を振り払っている。きっと、父が生きていた時も、そうだったのだろう。
 そして父は、ノエルのために命を賭したのだろうと思う。何をして、どんなことが起こったのかは分からない。きっと母はその真相を知っているけれど、きっと最後まで答えてはくれないのだろう。
 大人は怖いものだと思っていた。両親さえも、恐ろしいものだと思っていた。
 真実は未だ分からないことが多い。それでも、自分のためを思う母と父に、その時初めて感謝の念を抱いた。

「……私は、怖いわ」
「え?」
 ノエルの独白めいた言葉に、ポエはうろんげに首を傾げた。
「私はあなたが怖いわ」
 自嘲気味に笑みを浮かべて彼女を見る。
 その真っ直ぐで純粋な瞳は、私のように暗く恐ろしいものを見たことがないのだ。
 だからこそ、彼女の存在は恐ろしいもののように思えた。無垢で純粋な心を持つ彼女を見ると、嫉妬心に苛立った。
 ――そんな自分がひどく惨めな存在のようだと、思った。
「……私を知らないから、怖いの?」
「…………そうね」
 ぽつりと呟くように問いかけられて、ノエルは頷く。
 知らないものは怖い。私の知っている世界に、彼女という存在はあまりにも希有なものだ。
 無条件で与えられる情を、ノエルは知らない。
「なら、これから私を知っていってよ」
「……は?」
 実にあっけらかんと言い放つポエに、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
 呆けているノエルに、彼女は優しい顔で、優しい声で言った。
「私はあなたと友達になりたい」
 その口はまだ言うか。さっきのことを聞いていなかったのか。
 ノエルは非難の声を上げようとして、続けられた彼女の言葉にかき消された。
「でも、あなたは私を知らないから怖いんだよね。なら、私のことを知ってくれたら、友達になってくれる?」
 思わず、口を閉じてしまった。
 彼女がそこまでして、私と友達になりたいという理由は何なんだろう。
「だめかな……?」
「……」
 返答がないことに不安になったのか、ポエが憂わしげにこちらを見る。その表情が、どうしてかおかしくて心の中で苦笑した。
 どうして彼女はこんなにも人の心に敏感なのだろう。相手のことを慮り、果ては自分のことのように考えてくれる。
 そんな人を、ノエルはこれまで知らなかった。
「…………ノエルよ」
 だからだろうか、彼女は大丈夫なのだと思えた。
 名前を誰かに教えたのは数える程度しかなく、けれど、今この時ほど、誰かに教えるのを喜ばしく思ったことはなかった。
 胸を暖かく包み込むこの感情を、捨てたくはなかった。
 ポエがぱちくりと目を瞬いた。
 その後、嬉しそうに、にこにこと満面の笑みを浮かべた。
「……ね、ノエルは今からひま?」
 突然、彼女はそう切り出した。
「え、えぇ。まあ」
 いきなりのことにノエルは目を丸くする。これまでの話の流れはどこにいったのか。
 ノエルの返答にポエはよしと頷いた。
「なら、ちょっと付き合ってよ! アゼイリアさんのところに行きたいんだ!」
「ちょ、え、うわっ!」
 ノエルの返答を待たずして、ポエは彼女の手を取り歩きだした。
 それがなんだかくすぐったくて、ノエルは思わず苦笑いを浮かべる。

 いつもと違う日常は恐いものだと思っていた。扉を開けるのが恐くて、部屋に閉じこもっていたのに。こうも扉はたやすく開け放たれるものなのだろうか。
 恐いと思っていた外の世界は、見たことのない色彩に溢れている気がした。


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