〈飛翔の唄〉



 迫りくる炎。
 逃げまどう同胞。
 助けを求める多くの声。
 繰り返し繰り返し、この惨劇を見続ける。

 終わりがくればまたはじまり。はじまればまた終わる。
 何度も何度も最善のことをしようと動いた私は疲れ果てて、遂に目を瞑るしかなかった。


 ――誰か、助けてくれ。





「よぉ! 久しぶりだな」
 駆け寄ってくる懐かしい声にクロスは顔をほころばせた。ポエは彼の後ろから声の主を見上げる。初めて見る顔だ。
 男性の瞳は若葉萌える黄緑色。クロスよりも明るい黄金色の髪はかなり短い。快活そうな印象を受ける顔つきに、年の頃はクロスと同じくらいだろうか。
「元気そうでなによりだ」
 彼の言葉はクロスだけではなく、ポエにも向けられていた。
 里の外で、仲間と出会ったのは今回が初めてだ。外の世界に出てしまうと、一緒に行動をする相棒パートナー以外とはなかなか出会うことはない。
 それ故か、いつもよりクロスの声音は柔らかかった。
「お前も元気そうで良かったぜ」
 からからと人懐っこい笑顔を浮かべる男性を見ていたポエは小首を傾げた。二人の会話からすると、どうやらクロスの知り合いらしい。
「クロスさん、この方は……?」
「ん? ああ、すまない。初対面だったな」
 ポエが問いかけると、クロスは彼の紹介をはじめた。
「彼はスレヴィ。一応、俺の親友……か?」
「何で疑問系なんだよ!」
 親友だろうが! と声を上げるスレヴィに、クロスは苦笑いした。久しぶりにその賑やかな声を聞いて、ほっと安堵している自分がいる。
「んで、俺の相棒のユスティーナ」
 スレヴィは隣に立っていた女性――ユスティーナの肩に手を回しながら、彼女のことを紹介した。
 白藍色の髪は、肩より少し長いくらいだろうか。首の後ろで一つに縛り、さらりと癖もなく流れている。そして髪の色とは正反対の金茶色の瞳は、肩に回された手を見て半眼になった。
「あんたねぇ、紹介してくれるのはいいんだけど……この手は何」
「え? 仲良いアピール?」
「そんなアピールいらないわ……」
 若干疲れたような顔をして、彼女はスレヴィの手をぱしっと払いのけた。痛ぇよと呟く彼を後目に、クロスとポエの前に一歩近づく。
「ユスティーナよ。よろしくね」
「よろしく。俺のことは分かっているだろうがクロスという。この子は」
「ポエです。よろしくお願いします」
 二人ともに握手を交わし、簡単な自己紹介の時間が終わる。
「それで、お前がこれを飛ばしたのか?」
 これ、と言ってクロスが差し出したのは、手のひらサイズの小さな鳥だ。可愛い体の大きさとは打って変わって、その顔は猛禽類のそれである。鋭い眼光はスレヴィを真っ直ぐ射抜いていた。
「そーそー。ブロウィール、おいで」
 ブロウィールと呼ばれた鳥は、すかさず彼の方に向かって羽ばたいた。留まれるように腕を伸ばすと、そこに足を留める。
「良くやった」
 そう言って、彼は腰のポーチから白色の丸い粒を取り出した。それを鳥の口元へ持っていくと、嬉しそうに一声鳴いてぱくりと啄ばんだ。
「それで、報鳥を寄越したには訳があるんだろう?」
 ――報鳥とは、その名のとおり〈報せる鳥〉である。〈渡り鳥〉たちの間で、遠く離れた者同士が連絡を取り合う時に使う。どれだけ遠く離れていようが、この鳥が飛んでいける場所であれば、どこへでもその報せは届く。
 スレヴィは報鳥の留まっている腕を高く振りあげた。ばさりと翼を広げて、空に羽ばたいていく。普段、彼らは天空神の元で生活している天界の生き物だ。呼べばすぐに馳せ参じ、用が済めば神の元へ帰っていく。
 その姿を見送り、改めてクロスを見た。
「まぁな。とりあえず話を聞いてくれるか?」
 ただならぬ雰囲気を感じとり、クロスは怪訝に思いながらも頷く。
 スレヴィはそれを見て、すっと手を挙げて遠くに見える森を指差した。
「ここから先、ちょっと西に向かった方角に大きな森があったんだ」
「森が、あった?」
 森があるのはさして珍しいことではない。人が住んでいる街や村といった整備されたところから離れると、すぐに木々が覆い茂る場所がいくつもある。
 人の手の入らぬ自然の領域。
「そう、あったんだ」
 彼は断言した。『ある』のではなく『あった』。
「今は……もうない。全て、焼け落ちてた」
 その言葉に、ポエは息を詰まらせた。彼女の凍りつく表情を見て、クロスは優しく頭をなでる。
「……山火事か?」
 自然発火か、あるいは人為的なものか。
「たぶん。んで、巻き込まれた生き物が多いみてーで、あっちこっちから声が聞こえてきて、ひどいのなんの」
 きっと、逃げ遅れてしまった生き物たちの〈魂〉の声だろう。逃げ惑うことに必死で、死んでからもその魂は天に還ることなく、未だ彷徨い、逃げ続けている。
「なるほど。それで助けを呼んだのか」
 今回の〈魂送り〉は規模が大きいと踏んだのだろう。数多の〈魂〉がいるならば、二人だけでは到底間に合わない。
「おう。まあ、まさかお前が来てくれるとは思わなかったけどな」
「俺も、それの差出人がお前だとは思ってもいなかった」
 偶然とは何とも恐ろしいものだ。
 あれやこれやと話をしていた時に、何の前触れもなくスレヴィがポエを凝視しはじめた。何度か瞬きをして、何やら唸っている。
「あ、あの……」
「なんだスレヴィ。彼女に何かあるのか?」
 困惑気味の二人をよそに、彼は周囲の者に聞こえるか否かくらいの音量で、ぼそりと呟く。
「…………誰かに、似てる気がするんだけどなぁ」
 うーんと顎に手を添えて、ポエをじっと見つめる。
「?」
「……あ!」
 長い間見つめられると何だか居心地が悪くなってくる。どうしたものか、とそわそわしはじめたポエをよそに、彼は何かに思い至ったようで、ぽんっと手を叩いた。
「あいつだ。エステルに似てる」
 彼の口から飛び出した名前に驚いて、ポエは目を丸くした。
「……エステルさん?」
 似てるとは、どういうことだろう?
 ポエ自身は、彼女の姿を遠目でしか見たことがない。似ているか否かといわれれば、残念ながら分からない。
「おー。小せーころのエステルに似てるな。ほら、目の色も一緒だし」
 彼は謎がとけて嬉しかったのか、声高々に言葉を紡ぐ。
「そしたらあんただって緑でしょう?」
 そこにすかさず突っ込みをいれたのはユスティーナだ。
 しかし、彼は否、と首を横に振った。
「俺のは違う。俺は黄緑。こいつのは深い緑」
 自分の瞳とポエの瞳を交互に指差しながら言う。二人の瞳の緑色をしていた。
 しかし、彼の言うとおり、緑は緑でも片や黄色に近い緑色をしていて、片や深い深緑のような緑色をしている。前者がスレヴィ、後者がポエの瞳の色だ。
「んで、最近エステルと連絡とってんの?」
 その言葉に、ポエはドキリとした。
 ひっそりと視線だけをクロスに向ければ、彼の表情には何の感情も浮かんでいなかった。
 狼狽するポエをよそに、彼は話を続ける。
「里の外に出ても、鳥を飛ばせば近状のやりとりくらいできんだろ? してねーの?」
「あ、あのっ」
 くいっと彼の袖を引っ張った。それに気付いた彼は、困った顔をしているポエを見る。
 そして視線をずらし、無表情のクロスを見た。
 二人のまとう空気が変わったことに彼は気付いたのだろう。開きかけていた口を閉ざした。

 クロスをユスティーナに任せて、ポエはスレヴィと一緒に歩いていた。近くにあった湖畔で腰を下ろすと、彼にエステルが病気で亡くなったことを話した。
「……そうだったのか」
 エステルの病気は里の中でも知っている者はごく僅か。ポエ自身も、クロスから聞いて初めて知ったのだ。
 がしがしと頭をかいて、彼は罰の悪そうな顔をする。
「わりぃ、軽率だったな」
「…………そんなこと」
 ないです、とは言えなかった。
 偶然に偶然が重なって起きてしまっただけで、彼はなにも悪くない。
 だから、そんなに思い詰めることもないのだ。
 そう伝えても、彼はただ苦笑いするだけだった。
「そっかー……。エステル、病気だったんだ」
 どこか遠くを見ながら、彼は独りごちる。
 しばらく、二人の間には気まずい沈黙が落ちた。スレヴィは何やら思い詰めていて、ポエはそんな原因を作ってしまい、後ろめたかった。
 どうしたらこの重い空気を変えられるだろうか……。押し潰されそうな空気の中、そういえば、と先ほどから感じていたことを聞いてみることにした。
「……エステルさんと、お知り合いだったんですか?」
 疑問をそのまま彼に問いかけてみる。先ほどの口振りからすると、彼はエステルのことを昔から知ってるような気がしたのだ。
 案の定、彼は微笑を浮かべながら頷く。
「そうだな。わりと家が近くて、ちいせーときから遊んでたぞ」
 こんくらいの時からかなー、と言いながら、ポエの肩くらいの高さを指し示す。
「あいつはちいせーときから口が達者でな。すぐ誰かを言葉巧みにおちょくる奴でよ。大人になったら変わってるかと思ったのに、クロスのことすげぇ苛めてるの」
 しかもクロスはクロスで馬鹿正直に真に受けちまうから、エステルも楽しかったらしくてよ。毎日遊ばれてたぜー。それを眺めて笑うのが俺の日課。
 ……スレヴィの日課のことは脇に置いておくとして。クロスとエステルの意外な話を聞いて、ポエは驚きを隠せなかった。
「クロスさんとは?」
 ならば、クロスとはどういった経緯で知り合ったのだろう。親友、というくらいだから、彼ともまた小さい頃からの知り合いだろうか。
「あいつ? あいつは大人になってからだ」
 その予想外な返答に、思わず目を丸くした。
 ポエの反応が面白かったのか、彼はからからと陽気に笑った。
「俺、こう見えても、あいつの屋敷で警護してたんだぜ?」
「えっ!? そうなんですか!」
 クロスさんの屋敷といえば族長の屋敷のことである。里の中でも一番大きく、唯一、警護隊が存在し、守っている建物でもある。
 その警護隊といえば、里の中でも特に武道に秀でた者が選抜されていると聞いたことがある。
「おう。親父……っていうか、代々、警護するのが家柄だったんだよ」
 んで、年も近いし、あいつの側に控えるのも近かったしで、その流れでいつの間にかな。そう答えるスレヴィは、しかし、次に別な言葉を発する。
「いやぁ、でもまさか、クロスが嫁さんもらってきて、しかもその相手がエステルだったのには驚いたぜ」
 彼の驚きは、クロスが結婚したことによる驚きと、それ以外のものが含まれている気がした。
「?」
 その意味が分からずに首を傾げていると、だって、と彼は言葉を続ける。
「あいつ、クロスと一緒になる前に――」
「スレヴィ」
 彼の言葉は、突然割り込んできた第三者の声にかき消された。
 二人して声のした方へ顔を向ける。
 いつの間にいたのだろうか、クロスとユスティーナが立っていた。
「そろそろ行こうかと思うんだが、いいか?」
 いいか、と問いかける口調は些か固い。
 スレヴィは立ち上がり、ポエに手を差し出した。その手を取って、彼女もまた立ち上がる。
「りょーかい。それよか、さっきは悪かったな」
「いや、大丈夫だ」
 気にするな、と言ったクロスの表情はいつもと少しばかり違う。
 けれども、スレヴィは何も言わず彼の肩を優しく叩いた。



   □   ■   □



 そこに辿り着いた時、クロスは目をすがめた。
「これは……」
 焼け落ちた木々。半ば炭になりかけている幹に触れれば、指先に黒いものが付着する。
「酷いもんだろ」
「……そう、だな」
 山火事から幾日も経っているはずなのに、この場所はまだ火に包まれているような気がした。
 辺りに注意を配りながら、彼らは先に進む。この辺りはスレヴィとユスティーナが〈魂送り〉を行ったらしく、彷徨う〈魂〉はない。
 けれど、どこか遠くからその〈魂〉の声が聞こえていた。
「……あれは」
 どれくらい歩いた頃だろう。
 まずそれに気付いたのはポエだった。彼女の視線を追って、三人もそちらに目を向ける。
「ここの森の主……護り主、だろうな」
 いや、だった、と言うべきだろうか。
 既に亡骸となっている大きな獣。
 黒く燃え尽きていて、それが何だったのかは分からない。
 そして、この獣は何かをしようとしていたのだろう。森の外ではなく、森の中へ向かおうとした状態で倒れている。
 逃げるでもなく、この獣は何をしたかったのだろう。
〈――――〉
 ふと、耳に届いた音にポエはぐるりと辺りを見渡した。
「…………だれ?」
 しかし周りには誰もいない。
「ポエ?」
 きょろきょろと辺りを見渡している少女に、クロスは声をかけた。
「どうした?」
「声が、聞こえるんです」
「声?」
 しかし、耳を澄ましてもクロスには彼女の言う声というものは聞こえなかった。
 聞こえるのは、どこかでまだくすぶっている火種の音。
「……」
 ポエは何かに導かれるように歩きだした。さく、さくと焼かれた草を踏みしめて、大きな亡骸の前に立つ。
〈――――タスケて〉
 救いを求める声が、聞こえる。
 ポエはそっと手を差しだし、その指先が獣の亡骸に触れた。
 ――刹那、突如として地面が鳴動した。
「きゃっ!?」
 彼らの体を揺れが襲う。立っていられるが、動けるほど生易しいものではない。しばらくすると徐々に落ち着いていく地鳴りにほっと安堵していると、今度は辺り一面に炎が吹き出した。
「うわっ!」
 スレヴィは驚きの声を上げながら、ユスティーナの手を引っ張った。彼女の体勢が崩れて、彼の胸元に飛び込んだ形になる。
「ちょっ! なにするのよ!」
「いいからくっついてろ!」
 二人の横を、まるで生きているかのように炎が駆け抜けていく。それを目の当たりにして、ユスティーナは体を硬直させた。
 一体、何が起こっているのだ。
「……まさか」
 そこで、クロスははっとした。
「気をつけろ。下手に動くと夢に囚われる!」
 慌てて、獣の亡骸の前に立つポエに向かって走る。
 スレヴィはユスティーナを抱きかかえながら、クロスに向かって疑問の声を上げた。
「はぁ!? 夢だと!?」
「あぁ。ただし、“現実に起こった”夢だけどな」
 ――たぶん、これは護り主の現世で起こったことを再現した夢。
 護り主の魂は今もまだここにあり、彷徨い続けている。何か未練があるのだろう。魂に刻まれた記憶が、この世界に影響を及ぼしている。
 怒りか、悲しみか。まだはっきりとは分からないが、これだけは分かる。
「護り主の夢に引きずられるな! 抜け出せなくなるぞ!」
 クロスは叫びながら、ポエの肩を掴んだ。
 夢というのは実に曖昧なもので。夢の中でも、そこを現実だと思ってしまえば、それはその者の中で現実となる。
 そして夢に囚われた者は現世うつしよで眠りにつく。そして体は緩やかに衰弱していき、やがてそれは目覚めることのない永い眠りとなる。
 びくり、と肩を震わせてこちらを振り返ったポエの瞳は虚ろで、ここではないどこか遠くを見ていた。
 ――やばい、彼女は飲み込まれかけている。
「ポエ、だめだ! 心をかたむけるな!!」
 正気を取り戻させようと体を揺らすものの、熱に浮かされたような表情で彼女の意識はここにはない。やがて、ゆっくりとその瞼が落ちると、がくりと体から力が抜けた。
 倒れる前に、クロスはその体を支える。
「くそっ」
 ポエが意識を失った。
 ――……きっと、護り主の夢に引きずられていってしまったのだろう。
 クロスは頭の中で彼女を救う最善策を考える。
 ここでできるのは、ただ一つしか思い浮かばなかった。
 夢の中は危険だが彼女を助けるには急がなければいけない。夢と理解していなければ、それは現実とすり替えられてしまう。
 ポエを抱えてスレヴィとユスティーナの元へ戻ると、クロスは険しい顔で二人を見た。
「スレヴィ、手を貸してほしい」
 ただならぬ雰囲気を察したのか、彼は目を細める。
「何をする気だ?」
「…………俺も、夢の中に行く」
 その言葉に、スレヴィは目を丸くした。
「危険だ! お前だって分かってるだろう!」
「ああ。だが、この子を犠牲にするわけにはいかない」
 その言葉に、彼は苦虫を噛み潰したような表情をする。
 彼も分かっているのだ。誰かが夢の中に行かないと、ポエが戻ってこられないことを。
 ――そして、この惨劇が終わらないことも。
「危険だがやるしかない。だから、力を貸してくれ」
 彼の真っ直ぐな視線を受けて、仕方ないとばかりにスレヴィはため息をついた。
「……俺は何をすればいい?」
 彼の返答にクロスは彼に申し訳ないと思いつつ、ほっと安堵した。
「楽器を奏で続けてくれ」
「……それだけか?」
「それだけでいい。そして、絶対に途切れさせないでくれ」
 難題を示されて、スレヴィは眉を寄せた。
「難しい注文だなぁ」
 それにはクロスも頷かざるを得ない。
 けれど、重要なことなのだ。
「俺もそう思うよ。でも、楽器の音が標になる。夢の中にいても音は響く」
 その音だけが、夢の世界から現実世界へ戻るための道標になる。
 だから音を途切れさせてはならない。
 音が消えた時、現実世界へ戻る術が絶たれる。
「お前だけに負担はかけられない……ユスティーナも頼めるか?」
 クロスは彼の相棒にも問いかけて、頭を下げた。本当は、こんな危険なことはさせたくはないのが本音であり、しかし、ポエを救いたいのもまた本音である。
 頭を上げな、とユスティーナは言った。
「族長の頼みは断れないよ。それに、私もあの子を助けたいからね」
 顔を上げると、彼女は困ったような表情をしながらも苦笑していた。
「……ありがとう」



   □   ■   □



 目を開けた瞬間、視界に入ってきたのは覆い茂る新緑だった。
「……ここが、夢か」
 ぼそり、とクロスは呟いた。
 夢、というにはあまりにも現実に近すぎて、ともすればこちらが現実なのではないかと錯覚してしまいそうになる。
 青々とした葉。縦横無尽に延びる枝。太く手を広げたくらいでは到底届かない程大きい幹。
 すん、と鼻で空気を吸う。新緑の香り。
 まだこの森が生きているという証。
「……いや、もうこの森は生きていない」
 これは夢が生んだ幻。
 今見ている光景も、香りも、実際にはもう存在していない。
 何十年、何百年と生きてきた森が、一瞬にして奪われてしまうなんて……なんと、悲しいことか。
 いや、今はそんな感傷に浸っている場合ではない。
「早くポエを探さなければ」
 クロスは意を決して歩きだした。


 森の中を進むにつれて、どんどん景色が移り変わっていく。
 新緑は紅葉し、やがて、はらはらと落ちる。残された葉は一つもなく、ただ虚しく空に向かって延びる枝が残るだけ。
 ――――いつしか、その枝さえも枯れ果て、ボロボロになって落ちていく。葉も無く、枝も無く、幹には焼け焦げた傷跡だけが残る。
 この風景には見覚えがあった。現実で見たあの森だ。この夢の中でさえ、森は焼き尽くされてしまうのか。
 感傷に浸っていたクロスの耳に、ぽろん、ぽろん、と何かを爪弾く音が届いた。
 はっとして、その音を頼りに足を進めていく。
 この音には聞き覚えがある。彼女の竪琴の音色だ。
「…………ポエ!」
 見つけた。
 彼女もクロスの声に気付いたのか、こちらへ顔を向けた。
「クロスさん!?」
 彼女を見つけた安心感にほっと息をついたのも束の間、クロスは彼女の後ろにいる存在に目を見開いた。
「そいつは……!」
 ぽろん、ぽろん、と竪琴をつま弾く指は止まらない。
 ポエは竪琴を奏で、まるでその大きな生き物を導くようにゆっくりと歩みを進めている。
「護り主……! ならば、やはりこの夢は……」
 この、護り主のものなのか。
 ポエの背後にいる、大きな生き物。それはポエの何倍もの大きさを持ち、白銀の鱗に覆われた体躯は神々しい。流れる鬣は深い緑色。頭上にある二本の角は今にも折れてしまいそうなほど繊細で、いびつに歪んでいる。
 ――――その生き物は、世界では竜と呼ばれていた。膨大な智識を持ち、鋼のごとき体躯と強靱な力を持つ生き物。神にも近しい存在と云われた生き物は、けれど、徐々に姿を消していった。
「ポエ、どうやってここに来たか分かるか?」
「……いいえ。いつの間にか、ここにいました。ここはどこなんですか」
 つま弾く指を止めず、歩くことも止めず、ポエはそう問いかける。
 彼女の横を歩きながらクロスは答えた。
「今、君は夢の中にいるんだ」
「ゆめ……?」
「そうだ。この護り主の夢に引きずられて、お前はここにやってきた」
 ポエは情に脆い。他人を思いやり、まるで自分のことのように苦しんでしまう。それは悪いことではない。
 それ故に、彼女は〈魂〉に残された情に流されて、夢の世界に引きずり込まれた。
 でも、今ならまだ戻れる。
 ポエの奏でる竪琴とは違う音が、遠くから聞こえる。
 それはこの世界に来てからずっと流れていて、それがスレヴィのものだと理解するのに幾ばくの時間も必要なかった。
「ここは危険だ。早く出るぞ」
 二人にもあまり無茶なことはさせられない。
 だが、彼女は困惑の表情を浮かべた。
「でも、護り主が……」
 ぽろん、と彼女は音を奏でることを止めない。
「探しているんです。私が、導いてあげないと」
 竜は変わらず後ろをついてきている。
 クロスは一度振り返り、そしてポエを見やった。
「探すって、何を?」
「分かりません。でも、この先にあるんです」
 護り主の、探しているものが。
 クロスは険しい顔を隠せない。この護り主が何かを探しているとして、それが分からないのに探すというのは大変な作業になる。
 それにここは現世ではない。どんな危険があるか分からないのに、ずっとここにいるわけにもいかない。
 この世界がどんなに危険なのかを説明しても、ポエは頑として頷こうとしなかった。
「クロスさん、お願いします。あの時、聞こえた声はこの子の声だったんです。『助けて』って言ってたんです!」
 こうなってしまうと、ポエは譲らないことをクロスは知っていた。どうにか宥めようとして、結局根負けするのはクロスの方。
「…………分かった」
 だから、今回もクロスは彼女に折れるしかなかった。
「だが、何かあってからでは遅い。俺が危険だと感じたら、例え護り主を導けなくとも現世に戻るからな」
「……がんばります」
 ぽろろん、と竪琴が静かに鳴り響いた。






 ――それから、どれくらいの時間が経っただろうか。
 ポエとクロスは交互に楽器を奏でて、護り主を導いていた。
「……っ」
 痛みをこらえるように息を詰めるポエを、クロスは横目で見た。
 そろそろ弦をつま弾く指も限界にきている。早くこの世界から抜け出さないといけないというのに、護り主をどこへ導けばいいのか分からない。
「……ポエ、そろそろ交代する」
 ぽん、と彼女の肩を叩きながら、オカリナを吹く準備をする。
 しかし彼女は非難の声を上げた。
「え、でも、さっき交代したばかりです」
「お前の指は限界だ。使いものにならなくなるぞ」
「で、でも……」
 なおも言い募ろうとするポエに、クロスは有無を言わせない。
「俺が代わる。その間に指を休ませろ」
 クロスはオカリナをくわえた。
 彼女にこれ以上無理をさせるわけにはいかない。弦楽器は指で奏でるもの。
 その大事な指を、ここで無くしてしまうわけにはいかない。
 静かにゆっくりと息を吹き込めば、楽器から音があふれだした。幾つもの空いた穴を順番に塞ぎ、旋律を奏でる。
「……」
 クロスが奏でるのを横で聞きながら、ポエは後ろを振り返った。護り主は相変わらず音を頼りに後ろをついてきている。
 しかし、一歩足を踏み出すたびに、体がよたついている。この護り主も――竜も、限界が近いのだと察した。
 早くこの竜が探しているものを見つけなければいけない。焦ってはいけないと思いつつも、気持ちだけが先走ってしまう。
 そんなポエの心を感じとってか、クロスが奏でる音色は心を落ち着かせるような、実にゆったりとしたもの。
 しばらく、クロスが奏でる音だけが世界を包み込んだ。
「……あ」
 ポエが声を上げたのは、目の前に大きな鳥居が見えた時だった。クロスもそれに気づいて、オカリナを口元から離す。
 音が途切れた瞬間、竜は頭を上げた。
『――――……ここ、は』
 はじめて、護り主が口を開いた。
 彼らがたどり着いたのは、森の奥深くに鎮座する社だった。現実の世界ではすでに跡形も残っていないであろうそれは、堂々たる姿をここに残している。
 突然、ぽう、と社の前で一つの火の玉が現れた。
 ゆらゆらと揺れるそれを見て、護り主は唖然と目を大きく見開いた。
『…………主様』
 その声は、労りに満ちていた。
 ずっと待っていたかのように、その火の玉はゆっくりと近づいてくる。
『我らは皆、主様をずっとお待ちしておりました』
 その言葉と同時に、辺り一体に無数の火の玉が現れた。ポエとクロス、そして護り主を囲うように近づき、そして弾けた。
「きゃっ」
 突然のことに声を上げたのはポエ。
 クロスは慌てて片手で自身の顔を覆い、庇うように彼女を腕の中に包み込んだ。
 ――けれども、思っていた熱さと衝撃はこなかった。
 恐る恐る、クロスは腕を下ろす。
「……護り主の、同胞たちか」
 その光景を目の当たりして、ただただ安堵の息をこぼした。
 弾けた火の玉は、いつの間にか小さな獣の姿を成していたのだ。
 その全てが、護り主を暖かい眼差しで見つめている。
『――――ようやく、この夢幻の迷宮から抜け出せたのだな』
 竜の目から、一粒の涙がこぼれ落ちた。ぽたり、と滴は地面に落ちて、弾ける。
 その瞬間、護り主を中心に暖かい風が波紋となって広がっていった。風を受けた小さな生き物たちの周りにまばゆい燐光が降り注ぐ。
『主様。我らは、きっとまた巡り逢うでしょう』
 炎がかき消されるように、生き物たちの姿が薄らいでいく。
『それまでしばらくお別れです』
 一つ、また一つと生命の灯火が消えていく。
『ゆっくりお休みください』
 それを瞼に焼き付けるかのように、護り主はずっとその生命の火を見つめていた。
『……鳥の幼子らに、感謝を』
 ぽつり、と竜は口を開いた。
『記憶の迷宮から、やっと、抜け出すことができた』
 生きていた頃の安寧の日々。それが突如として変わってしまった出来事。逃げまどう同胞。焼け落ちる森。
 そして、全てが無くなった。
 悲しくて、辛くて、どうしようもなくなって。
 ――そして、現実が夢へと転じた。
『森の同胞も、そして森も、無くなってしまった』
 夢の中では同じことを繰り返していた。森で暮らし、同胞と森を守り、そして、迫りくる炎を前に、何度も身をていして森を守ろうとした。
 ――――それでも、夢の中でさえ、ただの一度として森を守ることはできなかった。
 ただ、それだけが悔やまれる。
『主様。私は、そして同胞たちは、主様と一緒にこの森で暮らしたことを決して忘れることはないでしょう』
 その言葉を残し、最後まで残っていた同胞の魂が、音もなく消えていった。
 護り主は同胞の言葉を聞き、悲しみを堪えるようにただ口を強くかみしめる。
 いたたまれない気持ちになったポエは、楽器を強く握りしめた。
『……鳥の幼子おさなごよ。その純粋な心を我に傾けてくれてありがとう』
 唇をかみしめて、ポエは遥か上の方にある護り主の顔を見上げる。
 優しい目つきの竜は、悲しそうに微笑んだ。
『この森は永く生きすぎたのだ』
 ふるふる、とポエは頭を横に振る。生きることは悪いことではない。永く生きすぎたからといって、何だというのだ。
 ポエの考えていることなど手に取るように分かるのか、竜はくつくつと笑った。
『無くなることはない。やがて新しい芽が吹き、またこの森は再生する』
 それは護り主たちが住んだかつての森ではない。木も、生き物も、そして護り主も、全てがいなくなり、また新たな命がはじまる。
 ――新しい森が生まれる。
『……さあ、鳥の幼子たちよ。在るべき場所へ帰るのだ』
 暖かい風が、二人の体を包み込む。
「護り主、あなたは……!」
『我はこのまま、この世界とともに消える。恐ろしくはない。彼らが待っているからな』
 いつの間にか、護り主の体を燐光が包み込んでいた。この竜もまた、先ほどの生き物たちのように消えて――天界へ向かうのだろう。
 ――ポエは、何故だかそれが恐ろしく思えた。気持ちだけが先走り、いてもたってもいられずに竪琴を構えた。
 ポエの体を包み込んだ暖かい風が、どんどん意識を奪っていく。現世へ帰ろうとしているのだろう。もう頭はぼんやりとしていて、それでも、この竜を送らなければいけないと思った。
「荘厳なる御霊は永遠とわに巡る。果てなき流れに任せるは、自然の輪廻」
 力を振り絞り、力ある言葉を音にのせる。指はすでに痛みの限界を超えていたが、止めることはできない。
 その時、オカリナの音が聞こえた気がした。驚いて音のした方へ顔を向ける。竪琴の音に合わせて、クロスがオカリナを吹いていた。
 彼も、同じ気持ちを抱いたのだろうか。それとも、ただ、〈魂送り〉にかかる負担を軽くしようとしたのか。
 その時のポエには分からなかったが、とにかく言葉を紡がなければいけないと思った。
「忘るる記憶は水底へ。されど追憶は刻まれて、大切な想いの箱の中へ――――」
 ――……言葉が、もう出ない。
 音も、正しい旋律を奏でているのかも分からない。
 意識はどんどん霞んでいき、世界が白く染まる。
 ただ、護り主の魂が迷わないように、そう、願いながら。
『――――……あり……がと……う』
 薄れていく意識の中で、竜の最後の言葉が聞こえたような気がした。





 ――暗闇の世界から、意識が浮上していく。
 ゆっくりと瞼を持ち上げれば、視界一面を青空が占めた。
「――――お、大丈夫か?」
 隣で声が聞こえた。
 まだあまり自由の利かない体を動かして、その声の主を探す。
 草を踏みしめてやってきた彼を見て、クロスはほっと息を吐き出した。
「……スレヴィ」
 身体を横たえているクロスの隣までくると、彼は顔を覗き込んできた。そしてほっと安堵の息を吐き出し、頭を小突く。
「俺が分かるなら大丈夫だな」
 ――帰ってこられた。
 肩肘をついて上体を起こしながら、ふと辺りに少女の姿が見えないことに気付き、焦燥感に苛まれる。
「ポエは?」
 クロスの心配をよそに、スレヴィは優しい眼差しを向けた。
「ついさっき起きたよ。今はユスティーナが見てる」
「そうか……よかった」
 自分だけが現世に戻ってきたのでは意味がない。彼女の姿を見るまでは心の底から安心できないが、きっと大丈夫だろう。
 そう思いながら、クロスは瞼を落とした。



 ひとつの森が、多くの命を奪いながら死んでいった。
 ――――そして、新たなひとつの命が生まれた。


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