〈冬鳥の唄〉


 純白の雪が音もなく降り続いている。見上げた空は灰色の暑い雲に覆いつくされていて、色彩というものが失われていた。
 氷でできた樹木が寂しそうにポツポツと育ち、枝先から滴る氷柱はまるで凶器のように鋭い。降り積もった雪が、風に吹かれて舞い上がった。
「……さむい」
 一言、呟く。
 ポエは純白の翼を軽くはばたかせて被った雪を払うと、はあー、と長く息を吐き出した。
「わあ、白くなりましたねぇ」
「それだけここが寒いんだろう」
 口を開けるたびに、吐き出される息が白く染まる。彼女がおもしろそうに何度も息を吐き出すのを見て、クロスは笑みを浮かべた。
「あんまりはしゃぎすぎて風邪引くなよ?」
 二人はすっぽりと体を包み込むように、獣の毛皮で作られた防寒着を羽織っていた。そのせいか、体はあまり寒さを感じていなかったが、僅かにはみ出している指先は、寒さで真っ赤になってしまっていた。
 両手をこすりあわせて、ポエはクロスを見上げた。
「それにしても、どこにいるんでしょうね……」
「ここにいるのは間違いないはずなんだがな」
 クロスは彼女の問いかけに答えながら、辺りを注意深く見渡した。
 一面の銀世界。そこに動くものは見あたらない。寒々としたどこか寂しい場所のように思えた。
「本当にここから聞こえたんですか?」
「ああ、ここのはずだ。ここからあの〈声〉が聞こえた」
 ――……そう、〈声〉が聞こえたのだ。
 その〈声〉はとても悲しいもので、胸を締め付けられるような、そんな痛みにも似た情をはらんだもの。
『トウトウ……独リニ、ナッテシマッタ……』
 そんな声が聞こえた。もしかすると聞き間違いか、空耳かもしれない。
 だが、どうしても気になってしまったのだ。
 ポエは足を一歩踏み出した。さく、さく、と雪の上を歩く音。後ろを見れば、二人分の足跡が延々と続いていた。
「それにしても、クロスさん。ここって……」
「ああ、俺も驚いたよ」
 足を止めて、眼前に広がる山々を見渡した。
「まさか、本当に〈雪幻嶺せつげんれい〉が存在するとはな」
 ――遙か遙か遠い昔より伝わる伝説の山。そこは一面を雪で覆われていて、決して溶けることがない極寒の地。木々は育たず、獣はこの地で生きていくこと叶わず。すべてが氷と雪のみで形成された、〈冬〉の山。
 また、その山がどこに存在しているのかも定かではないことから〈神の住まう山〉とも呼ばれている。
 そんな場所に、ポエとクロスは足を踏み入れたのだ。
「だが、そうそう驚いてばかりもいられないようだ」
 そう言うとクロスは立ち止まり、瞼を落とした。深く、ゆっくりと息を吸い込む。神経を細く細く研ぎ澄ませ、〈渡り鳥〉の力を少しだけ解放する。
 ふわり、と内なる力が具現してクロスの髪をひるがえした。目に見えない何かが彼を中心にして広がっていく。
「――――やはり、まだあの〈声〉の主はここにいるようだ」
 逆巻く力が落ち着いた時に、クロスは口を開いた。瞼を持ち上げて、ポエに顔を向ける。彼女は小さく頷いた。
「たぶん、この先だ」
 クロスは遠くを指さした。
「あそこの林を抜けた先に、たぶん」
「いるんですね?」
 クロスの後をついで、ポエは言った。
「たぶんだ。確信は持てない」
「クロスさんが言うんだから、間違いないです」
「はは、おだてても何も出ないよ」
 ポエが意気込んで言うものだから、思わずクロスは苦笑いを浮かべた。何をそんなに過大評価しているのだろうか。
「む、私はとても真面目に言ってるんですよ」
「ありがとう。その好意だけ受け取っておくよ」
「……信じてないですね」
 ぷくりと頬を膨らませて怒るポエに、クロスはただ微笑むことしかできなかった。
「とにかくだ。確かめに行くぞ」
「はい」
 二人は、止めていた足を動かす。雪原を歩き始めると後には足跡だけが虫の行列のように残るのみ。青い影を落として、いつの間にか、遠く離れてしまった足跡は降り続ける雪のせいで消えてしまった。
 舞い落ちる雪はやむ気配を見せない。もしかすると、これからもっと酷くなっていくこともあるだろう。なるべくなら、そうあってはほしくないものだ。
 足早に林の中へ入っていく。その林は氷の樹木が密集していたためにとても肌寒かった。
 けれど、ガラスのように透き通るそれは向こう側にある風景が写り込み、樹木全体が不思議な色を生み出している。まるできらきらと輝く宝石のようだ。
「わあ……」
 感嘆の声を上げたのはポエだった。
「すごい綺麗ですね」
「これぞ自然の神秘だな」
 よくよく上を見上げれば、枝と枝が繋がっていた。降り続く雪が積もり、溶けて、固まったのだろうか。まるで一本の氷樹の根が広がっているように思えた。
「すごいなぁ」
 口元に笑みをこぼしながらそう言った。
「あ……」
 ポエが息をもらした時、一陣の風が吹き抜けた。木々の枝がこすれ合い、しゃらしゃらと音が響き渡る。不思議な音のハーモニーがその場を包み込んだ。
「綺麗な音……」
「枝がぶつかり合って音が出ているのか」
 一つが音を鳴らせば周りも音を鳴らす。まるで生きているかのように鳴り響くその音に、思わず聴き入ってしまいそうになる。
 ポエは立ち止まって聴き入ってしまいそうになるのをこらえて、歩みを進めた。
 それから数分ほど歩き続け、二人は林を抜けた。
 その先には広く大きな湖があった。少し歩いて、湖を見る。表面だけが凍っているらしく、分厚い氷の下には小さな魚の群れが見えた。
「ポエ」
 クロスの声に、ポエは彼を見上げた。しかし彼はどこか別のところに視線を向けている。
 その視線を追いかけて、気づいた。
「……あの子」
 そこには一羽の白い鳥がいた。
「クロスさん」
「ああ、あいつが〈声〉の主だろう」
 かの鳥を遠くから見つめた。

『……私ハ……独リ……誰モ、皆モ、イナクナッテシマッタ……』

 湖の中央にいる白い鳥の声が、鮮明に聞こえた。その声に反応してか、氷の下の水面が波打つ。
「〈風花鳥かざはなちょう〉の声だったようだな」
 クロスは、悲しみを帯びた瞳を白い鳥に向けながら呟いた。
 ――その名にある〈風花〉は、晴れているのに風があって、雪がちらちら降ることを意味している。そんな〈風花〉の如く、彼らが通った道は天候関係なく雪が降る。純白の体躯、白銀の瞳。その容姿とも相まって、〈風花鳥〉の名がついた。
 彼らは数百羽の群れで飛ぶ習性がある。孤立しているのは、仲間とはぐれたか。もしくは、
「ここ最近、彼らの姿を見なくなった。……数が、急激に減っているらしい」
「……乱獲、でしょうか」
「だろうな」
 〈風花鳥〉の白い羽毛はとても珍しい。それ故に、人族の猟師はその羽毛をはぎ取る為に、ためらいなく彼らの命を奪う。昔はそんなことは無かったのだが、現在はそんな輩が増えている。……増えすぎているのだ。
「どうしてそこまでするんだろうな」
 ごく稀に、空を飛んでいる鳥と間違えられて命を落とす〈渡り鳥〉がいるとも聞いた。それもここ最近で増えてきたこと。
 同族を喪うのは悲しい。それが寿命であったり、自然に命の灯火が消えていくのならば、納得できよう。だが、突然命を喪うというのは、恐ろしいものだ。
 あまり好ましくない世界になってしまった、とクロスは心の中で思った。
「あの子、可哀想ですよ……」
 クロスは視線をポエに向けた。まっすぐかの鳥を見つめる瞳は、大きく揺れていた。
 ――いつだったか。〈琥珀鳥〉の時もそうだ。彼女は情に流されすぎている。〈渡り鳥〉は全てに平等でなくてならない。それでいて不平等でもある。救える命。救えない命。全てを助けられるはずがないのだ。
 ……それでも、彼女は全てを救おうとするのだろう。
「行ってこい」
「え……?」
 クロスの声に、ポエははっとして顔を上げた。まっすぐこちらを見る瞳とぶつかり、彼は、僅かに口の端を持ち上げた。
「助けたいんだろう?」
「……はい」
 頷き、ポエは歩きだした。腰のポーチから薄黄色の拳ほどの大きさの珠を取り出して、握りしめる。
 雪原から氷の湖へ、足場が変わる。つるつると滑ってしまうかもしれない、と思っていたのだが杞憂に終わったらしい。雪がずっと降り続いているからだろう、氷の上にも雪が少しだけ積もっていた。
 それでも足場が悪いことに変わりはない。転ばないように注意しながら〈風花鳥〉の元に足を運んでいく。
 ゆっくりと歩いていき、少し離れたところで足を止めた。よくよく〈風花鳥〉の姿を見れば、足先はすでに氷の一部と化していた。
 ポエは、静かに口を開く。
「あなたは、どうしてここにいるの?」
 首をもたげていた鳥が、ポエの声に反応して顔を上げた。閉じていた瞼がゆっくりと開かれ、眼前にいる少女を視界にとらえる。
 そこで、初めて自分以外の存在に気づいたようだ。少し目を見開き、しかし悲しそうに首を下げた。
『私ハ、コノ地ニ残サレタ……誰モ、幾年待ッテモ、誰モ、来ナイ……』
 〈風花鳥〉はささやくようなか細い声で言った。虚ろな瞳は、どこか遠くを見ているようで何も捉えていない。
 空は相変わらず暗かった。まるで、この鳥の心の内を反映しているように。
『コノ地ニ縛ラレ、ドコニモ行クコトガデキズ、タダ、ココニイルダケ』
「……」
『ナゼ、誰モイナクナッテシマッタノダ……』
 〈風花鳥〉はポエから視線を外し、再び瞼を落とした。
「……どうして」
 ポエもまた〈風花鳥〉と同じように瞼を落とした。沈痛な鳥の思いが、伝わってくる。
 仲間を捜しているのに、その仲間が見つからない。疲れ果て、この地に降り立ち、そして、動けなくなってしまった。
 助けたい気持ちはあるのに、どうやったら〈風花鳥〉を助けることができるのだろうか。
 分からない。助けたいのに助けられない思いが胸の内をぐるぐると周り続けて、苦しい。
「ポエ、落ち着け」
 突然耳に届いた声に、はっとして振り返った。視線の先にいるクロスが、静かに微笑んでいた。
 ポエは呆然と彼を見つめる。
「お前になら聞こえるはずだ」
 しんしんと降り続ける雪の中で、その言葉がやけに大きく聞こえた。
「え?」
「〈声〉が聞こえるはずだ」

 ――――…………イタ

 かすかに、声が聞こえた。
 ポエは空を見上げた。空に目をやると、若干雲に隙間ができていた。覗くのは青い色。
 そして、その青の中に舞う白。
『ドウシテ……誰モ、誰モ……私ノコトヲ、忘レテシマッタ……?』
「それは違うよ」
 断言するポエの言葉が、届いたのだろうか、はたまた違うのか。〈風花鳥〉が瞼を上げて、仰ぎ見た。
 ばさり、と羽ばたく音が遠くから聞こえてくる。

 ――……イタ

 ――……ココニ、イタ

 幾つもの羽の音と声が、木霊する。
「みんな、あなたのことを捜していたんだよ」
『アァ……ッ』
 〈風花鳥〉は驚きの、そして喜びの声を上げた。
 厚い雲の切れ間から姿を現したのは〈風花鳥〉の群だった。白い翼が上下に動くたび、はらりはらりと雪が舞い落ちる。
 それはまるで六花のごとく、幻想的に美しかった。
「あなたはもう独りじゃないよ」
 突然、湖の中央から見えない波動が生じた。
「だって、彼らと会えたでしょう」
 風のように吹き抜けていった波動が過ぎ去ると、ぴしり、と湖の氷に一筋のひびが入った。徐々にひびが入っていく氷の上で、ポエは〈風花鳥〉に語りかける。
「あなたには白い大きな翼がある。その自由な翼があれば、みんなと一緒に行けるよ!」
 ぱりん、何かが割れる音が響いた。それと同時に、湖が淡い光に包まれる。まるで水底から光が溢れでるように、湖全体を覆いつくした。
 その瞬間、湖の表面の氷がゆるやかに溶けていった。ポエは慌てて宙に舞い、〈風花鳥〉は水面に浮いていた。
 〈風花鳥〉は翼を広げて、大きく羽ばたく。
 しかし、その体が空に浮かぶことはなかった。
『……駄目ダ、私ハ、飛ビ方ヲ忘レテシマッタ……』
「そんなっ」
 ポエは、ポーチから淡く輝く珠を取り出した。瞬き一つで竪琴へと姿を変えると、ぽろん、と弦をつま弾いた。
「……私が、背中を押してあげる」
『……エ?』
「大丈夫。あなたもみんなと一緒に飛べるよ」
 ポエは竪琴を奏で、唄い始めた。
「白く気高き翼をもつものよ、それは自由を願う大いなる翼」
 音と声が奏でる旋律。
 時には力強く、時には穏やかに、流れるように紡ぐそれは、〈風花鳥〉の思い。
 ばさり、ともう一度力強く翼を揺らした〈風花鳥〉は、なぜか先ほどよりも体が軽くなったような気がしていた。あんなにも重かった体が、今は羽のように軽い。
 見上げた空には、無数の白い影。待ち望んでいた、仲間との邂逅。
 忘れていたものが、よみがえってきた。
「久遠の彼方、いざ舞い上がれ。ゆける、ゆける、空の向こうまで」
 ポエの言葉が終わるや否や、〈風花鳥〉が勢いよく空に向かって飛び上がった。風圧で水面が歪み、水しぶきが舞い上がる。
「……よかったぁ」
 全身を襲う脱力感。それを表に出さないようにしつつ、ポエは安堵の息を吐いた。
『アリガトウ。アナタノオカゲダ……』
 見上げると、〈風花鳥〉は穏やかな表情を浮かべていた。ポエもまた、つられて微笑む。
 ふわり、と〈風花鳥〉の姿がかき消えた。代わりに現れたのは白く大きな丸い発光体。
 ――……〈風花鳥〉の魂だ。既に、彼は魂だけの虚ろな存在となっていたのだ。体は朽ち果てても、魂だけは、仲間を求めて。
 そして、その仲間もまた魂のみの存在となっていた。そんな存在となってしまっても、独りはぐれてしまった仲間を探していた。
 独りはぐれていた鳥が、群れに還っていく。
「行ったようだな」
「はい」
 いつの間にか、クロスが脇に立っていた。
「よく頑張った。彼らも、救われただろう」
「……はい」
 二人は〈風花鳥〉の群が飛び去った方向を見た。もう遠くまで行ってしまった彼らの姿をはっきりと見ることはできない。
 けれど、彼らならきっとこれから先、誰独り欠けることなく飛んでいけるだろう。

 いつの間にか、空は青く晴れ渡っていた。


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