〈静穏の唄〉


「そろそろ休もうか」
「……はい」
 大空を翔けていた二人は、疲れきった体を休めるために眼下の森へと降りていった。

 空はまだ明るいというのに、森の中は薄暗かった。普通の木よりも、何倍も何十倍も大きいその木々は、樹齢何千年というものではないのだろう。何万年という月日を、この場所で過ごしてきたのだろう。
 クロスは辺りを見渡した。木の幹には蔦が絡みつき、根本には緑色の苔がびっしりと生えている。そこからさらに、小さな植物の芽が出ていた。
「この辺りの木々は大きいな」
 そう、歩きながら呟くクロス。
 彼の独り言のような言葉に、いつもなら何らかの反応を見せるポエだったが、今回は違った。
「……ポエ?」
「……」
 問いかけても、ポエは何も反応しなかった。
 彼女の前を歩いていたクロスは、歩調を合わせて隣に立った。ゆっくりと彼女の顔をのぞき込む。
 ポエの瞳にはあまり光がなかった。虚ろな表情で、あまり顔色がよくない。
 これはまずい、とクロスは思った。
「おい、ポエ?」
 二度目の問いかけにも彼女は答えなかった。
 今度は顔の前で手を振ってみる。……反応なし。
「…………」
 顎に手をそえて考え込む。
 少しした後、クロスはポエの後ろに回り込んだ。未だに何の反応も見せず、彼の行動も気づいていないポエはただただ前に足を進めるのみ。
 一定の距離を保ちながら、クロスは彼女の後頭部をはたいた。
「きゃっ!?」
 案の定、ポエは驚きの声を上げてはたかれた部分を両手で押さえた。
 足をとめた彼女はくるりと振り返り、非難の目がクロスに向けられる。
「い、いきなり何をするんですかクロスさんっ!」
 頬を膨らませて怒りを露わにするポエに対して、けれどクロスは口を開かなかった。穏やかな、それでいて鋭い視線が彼女を射抜く。
 そんな彼の視線にポエは息を飲んだ。
 彼のこんな表情は、あまり見たことがなかった。
「な、なんですか……」
「お前、大丈夫か?」
「…………なにが、ですか」
 クロスの表情は真剣そのものだ。だが、ポエにはその意味するところが理解できずに、ただたじろぐことしかできなかった。
 彼は小さくため息をついた。
「声をかけても返事がないし、どこか上の空だぞ」
 その言葉に、ポエは答えない。
「この間の〈琥珀鳥こはくちょう〉のこともあるが……お前、無理してないか?」
 ポエは以前、傷を負った〈琥珀鳥〉の魂を天に送ったことがある。
 その時、彼女は辛い経験をした。必死に生きようとしていた彼を救おうとしたが、逆に命を散らすことになってしまった。
 それからはまるで、その時のことを思いださないよう、暗くなる気持ちを紛らわすかのように、彷徨える幾つもの魂を天に送っていた。

 ――〈渡り鳥〉は、死んだ生物の〈魂〉を天に送る使命を持つ。これは、彼らが生まれてからずっと行っているもの。
 それは、彼らが崇拝する天空の神ロスト=フィアが彼らに頼んだという。

『全ての〈魂〉を、還りみちを忘れてしまった〈魂〉たちを、迷わないように天に送ってくれ』

「君の技量では、あまり多くの〈魂〉を送ることはできない。それに、熟練した者でも難しいとされる特別な〈唄〉をやり遂げた後だ。君の体は、もう限界だろう……?」
 ポエは黙って聞いていた。彼の言葉の一つ一つが、心に重くのしかかる。
 半ば泣きそうな顔をしているポエに、クロスはおもむろに近づいて彼女の体を優しく抱きしめた。
「あまり無理をするな」
「……ごめんなさい」
 小さく頷いたポエは目をつぶった。それと同時に彼女の体から力が抜けて、かくりと膝が折れる。クロスは彼女が落ちないようにしっかりと体を支えた。
 まだ彼女の子供の体は細く、軽い。こんな体で今日までよく保ったものだと感心する反面、不安にもなった。
 いつかこの子は、自分の身を滅ぼしてしまう時がきてしまうのだろうと、考えてしまう。自分よりも他人を思いやることを優先する、優しい心。
 その優しくも暖かい心が、どうか、この先汚れないように願う。
「……まったく、無茶をするな」
 クロスは呆れまじりのため息を吐きつつ、ポエを背負いながら再び森の中を歩き始めた。



「……ん」
 ポエは重たい瞼を持ち上げた。いつの間に眠ってしまっていたのだろう。寝起きの頭ではまだ記憶がかすみがかっていて、何をしていたのか思い出せない。
 ぼんやりとした視界が、徐々にはっきりと、鮮明になっていく。
 ふと、澄んだ音が、木霊した。
「……!」
 ぼうっとしていたポエは、間近にあったそれに気がついて、息を止めた。
 ――クロスの顔が、そこにはあった。どうやら膝枕をしてくれているようで、彼の顔を下から見上げる形だ。
 彼は目をつぶり、オカリナを吹いている。楽器独特の旋律が響きわたり、その音色に会わせて小鳥がさえずり、木々が歌い、泉が反響する。
 そして、それに混ざる不思議な歌声が辺り一面に広がっていた。
「夢に在りし、その泡沫うたかた……幾千もの時を越えて、唄え、舞え……」
 耳を澄ませてその声を聞いていたポエは、ひっそりと微笑んだ。
 ――紛れもない、クロスさんの声だ。
 〈渡り鳥〉一族の族長は、代々オカリナを受け継ぐ。それは古より神に頂いたもので、それを扱える者はごく限られた存在のみ。
 つまり、族長となる器を持つもののみ。
 そして彼らは〈風の喉〉と呼ばれる第二の喉で、唄うことができた。
「……静かなる時代ときを過ぎ、また新たなる時代は巡る……」
 いつも発する声とは違う、少年のように高い声。〈風の喉〉は、唄うその人の心を表現し、どうしたわけか族長となった時の声が音となる。
 クロスが族長となったのは〈渡り鳥〉一族で史上最年少だった十六歳。その時から彼は、一族の中心たる存在になった。
「夢追う者よ、さあ舞い上がれ。永遠とわの時代へ」
 そこで、唄は余韻を響かせながら終わった。
 二拍ほどの間をおいて、ポエは口を開いた。
「……やっぱり、クロスさんの歌声は綺麗ですね」
「ん? 起きていたのか」
「はい」
 急に声をかけたからか、驚いた表情を浮かべるクロスにポエは微笑んだ。
 歌声とは違ういつもの声。
「まさか起きているとはな……ああ、もしかして俺の声がうるさかったか? それともこっち?」
 こっち、と言ってクロスは左手に持つオカリナを掲げた。
 けれどポエはそれを見て、横に首を振る。
「いいえ。クロスさんの声に心を癒してもらいました。ありがとうございます」
「そうかい? そう言ってもらえると嬉しいよ」
 からりと笑ったクロスは、オカリナを優しく両手の中に包み込んだ。すると、何の前触れもなく淡い光が指の隙間から溢れた。一拍を置かずして光は消えて、手を広げる。
 そこには、淡い光を放つ晴れ渡る空の色のたまがあった。彼はそれを腰のポーチにしまうと、ポエを抱きかかえて立ち上がった。
 あまりにも突然のことに、ポエは驚いて体が硬直してしまう。
「えっ? ちょっと、クロスさん……!?」
 状況が理解できていないポエを後目に、クロスは眼前の泉へと足を進める。
「……なあ、ポエ」
「はい?」
 泉より数歩離れた場所で、クロスはポエを地面に降ろした。ポエは彼の不可思議な行動に、首を傾げる。
「一つ、知っておいて欲しいことがある」
 クロスは語調を硬くして、言った。つい今し方まであった雰囲気が一変し、ポエは緊張する。
「〈魂〉は繊細で脆いものだ。扱いが悪いと、すぐに壊れてしまう」
 クロスはポーチにしまった珠を再び取り出した。手に持ったそれを、静かに見つめる。すると、溶けるようにして珠の形が崩れていき、それはオカリナの形を成した。繊細な模様が描かれた、珠と同じ空色のオカリナ。
「それはこの楽器も一緒だ。俺たちのもつこれは、己の〈魂〉と繋がっている」
 つまり、扱いを間違えれば己の命が危険にさらされるということだ。
「無理をすると取り返しがつかないことになる……」
 クロスの瞳が揺れた。ポエははっとしてその意味を悟り、胸を締め付けられるような感覚に陥った。
 ――クロスさんは、最愛の人を亡くしたんだ。
「あまり無茶をしないでくれ。……頼む」
「……わかっていますよ。私は、大丈夫です」
 彼の心の傷は未だ癒えていない。そしてこれからも、癒えることはないのかもしれない。
 暗く沈んでいるクロスに、ポエは微笑みかけた。
「ありがとうございます。私のことを心配してくれて」
 彼を見上げれば、何とも複雑そうな顔をしていた。心配そうな、少し微笑んだような。いびつな表情。
「でも、クロスさんも無茶はしないでくださいね」
「……あぁ。約束する」
 その言葉が偽りでないことを、偽りにならないことを願うしかなかった。


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