〈哀愁の唄〉


 深い森の奥で、少女は立っていた。
 光があまり射し込まないその場所は薄暗く、しかし、彼女の前に横たわるそれは、淡い光を放っていた。
 暖かみのある、白い穏やかな光。
 けれど、それはもうすぐ消えゆく輝き。
『アリガトウ』
 掠れた声が少女の耳に届いた。
 それは、白い光に包まれている獣の声だ。
 全身を覆う白い毛並み、かすかに開いた瞼からのぞく、赤い瞳。
 もう、幾ばくの猶予も残されていない小さな命の声。
「いいえ」
 少女は首を横に振りながら答える。
「……けれど、どういたしまして」
 幼さの残る澄んだ声は、どこか緊張しているように堅い。
 寂しさを表したかのような冷たい風が頬をなでた。はらりとなびいた亜麻色の髪が、僅かに差し込む光を反射する。
 ぽろん、と少女は手に持つ竪琴を爪弾いた。少女よりも高く澄んだ音が鳴った。ぽろん、ぽろんと弾いて奏でるそれは、どこか哀しみを帯びていて、心を沈ませてしまう。
 その音色に乗せて、少女は口を開いて言葉を紡いだ。

 ――……それは悲しくも命を送る〈哀愁あいしゅうの唄〉。


「……お、やっと帰ってきたか」
 かさり、かさり、と歩く音。
 深い森を抜けた先に広がる平原。その入り口で、青年が木を背にして腰掛けていた。少女の歩く音に気付いたのだろう。彼はゆっくりとこちらに顔を向けて、苦笑いした。
「すみません。遅くなりました」
 腕の中にある大切な竪琴を抱えながら、少女――ポエもまた、苦笑いを浮かべた。
 かさり、かさり、と草をはむ音。
 ポエは青年――クロスの傍らに歩み寄ると、そのまま腰を落とした。
 まだ、心が、落ち着かない。
「大丈夫か?」
「えっ」
 突然な問いかけに、ポエは驚いた。
 何のことだろう、と心の中で考えても思い当たる節はなく。もしかして、〈魂送たまおくり〉が失敗してないか、ということを聞いているのだろうか。
「はい、大丈夫です。彼は……無事に、逝きました」
 思いと言葉を唄にのせて、彷徨える魂を天に送る葬送曲。
 それは祈りであり、願いでもある。
「……ふむ」
 しかし、クロスの思惑は別にあったようだ。
 何か考え込むそぶりを見せる彼に、ポエは首を傾げる。
「無事に〈魂送り〉ができたのは、見ていたから知っている。俺は、君が大丈夫かと聞いているんだ」
「私、ですか?」
 ああ、とクロスは頷いた。
 けれど、ポエは彼の言いたいことが分からずに首をひねるしかできない。自分の体調が悪いわけではなく、かといって他に何か不調なところがあるわけでもない。
 しかし、彼の次の言葉で理解した。
「君はまだ幼い。特に精神面でな。……俺たちは、情に流されてはいけないんだ」
 ポエは、はっとした。胸を突かれたような気がして、思わず目線を下げる。
 ……少なからず、情に流されてしまったとは思う。それが、悪いことではないのだと分かっていても、良いことでもない。
 私たちに任された〈宿命さだめ〉は、軽いものではないのだから。
「あ、いや……そんなに気にすることはない。俺だって初めての〈魂送り〉の時は情に流されたものだ」
 クロスは穏やかに苦笑いを浮かべた。三十路くらいの彼は、そんな笑みを浮かべるとまるで少年のようだ。
 ポエも、彼につられて笑みを作った。
 ――それでも、胸の内にくすぶる思いは、晴れていない。
 その内面を見透かしたかのように、クロスは目を細めて口を開く。
「だが、これだけは忘れないでくれ。俺たち〈渡り鳥〉は生命の番人だということを。情に流されてはいけないということを……」
 それは、命に対して無慈悲であらねばならぬ番人たる者への戒めの言葉。



   □   ■   □



 空は美しい青に彩られていた。白雲がぽつりぽつりと存在しているだけで、全てが青い。
 そこを、ポエとクロスは自身の背にある両翼を羽ばたかせて飛んでいた。眼下に広がる森林を見渡し、聴こえた〈声〉の主を探す。
「たぶん、もうすぐだ」
 クロスの声に、彼の若干後ろを飛んでいたポエは息を飲んだ。
「……大丈夫か?」
「…………はい」
 優しく問われた言葉に、ポエは少しのためらいを見せつつも頷く。頷くしか、なかった。
 聞こえてきた〈声〉は、それは張り裂けてしまいそうに痛々しいものだった。痛みと、憎しみと、生きたいと願う思いと、色々な感情が相まって生まれた〈声〉。
 そんな〈声〉に、ポエは気後れしてしまっていた。
「今回も君に任せようと思うが……いいか?」
「だいじょうぶです」
 ――果たして、〈声〉の主と対面した時に、ちゃんと〈魂送り〉はできるだろうか。
「無理だけはするなよ」
 ばさり、と音をたてて二人は高度を下げていく。枝葉にぶつかって羽を傷つけぬよう、慎重に。
 地面に足が着いた。翼を折りたたみ、辺りを見渡す。
 暗く深い森。身を隠すにはうってつけの場所かもしれない、とポエは思った。果たして、〈声〉の主が隠れる為にこの場所を選んだのかは定かではないが。
『――――…………』
 かすかに、耳に届く音。
「クロスさん」
「ああ、たぶん向こうだろう」
 クロスは音のした方へ歩きだした。ポエも、彼の後を追うように歩きだす。
 がさ、がさと踏みしめる音がやけに耳に響く。獣の声が全く聞こえないこの森は、静寂に包まれていた。
 耳が痛くなるほどの無音の中で、二人の歩く音と、一つの〈声〉。
「……ここか」
 クロスが立ち止まり、小さく呟く。
 ポエは後ろからそれをのぞき込んだ。
 そこには、長い草が群生していた。ポエの背丈ほどの細長い草が、まるで壁を作るようにして育っている。
 足下を見れば散らばる紫色の花弁。もう時期は過ぎてしまったのだろう、ぽつりぽつりと枯れている小さな花が、密集する葉の隙間から見えていた。
 クロスは、ゆったりとした動作で振り返る。
「行くぞ」
「はい」
 彼の声に、ポエは頷く。
 内心の不安は悟られないように。
 再び歩きだしたクロスを先頭に、ポエは茂みをかき分けていく。
『……タイ…………イタイ……』
 茂みの中に隠れていたのは、大きな鳥だった。
 琥珀色の大きな瞳に、赤色の体躯。翼の先端と尾の先だけが白かった。
 そして、鼻をつく嫌な臭い。
「こいつは……」
「……〈琥珀鳥こはくちょう〉?」
 その名は、美しい体躯からきている。琥珀色の美しい羽毛を身に纏い、輝く瞳も同色の琥珀。
 あまり見ることができない、極めて数が少ない鳥の種族。
「人族にやられたか」
「人族……ですか?」
「ああ。〈琥珀鳥〉の羽毛は、人族の間では高値で取引されているって話だ」
 希少な鳥の羽は、さながら芸術品と同じ。
 〈琥珀鳥〉の羽毛もまたそれに等しく、美しい羽毛には価値があった。あったが故に、〈琥珀鳥〉は人族に狙われ続けて、そして今も数を減らしている。
 二人の前に横たわる、赤い色の〈琥珀鳥〉。この赤い色は、血だ。胸に一つの穴が空いていて、そこから止めどなく液体が流れ続けている。
 地表を斑に染めても、まだまだあふれ出くる血の多さに、ポエは足がすくんでしまった。
 この一羽もまた、不運なことに人族に狙われてしまったのだろう。
 傷口の痛みからか、〈琥珀鳥〉はもがき苦しんでいた。
 慌ててポエが駆け寄ろうとするのを、クロスは腕を掴んで引き留めた。
「何をするんですか。早く助けないと……!」
「……酷だが、時がくるのを待つしかない」
「どういうことですかっ?」
 クロスの凪いだ瞳が、なぜだか恐ろしいものに見えた。
「言っただろう。俺たちは生命の番人だ。みだりにそれを歪めてはならない」
「歪めるって……」
「俺たちはたまたま〈声〉を頼りにここまで来た。本来ならば、出会うはずがないんだ」
 魂の〈声〉が聞こえるということ。それは還りみちを忘れてしまった者の〈声〉でもある。
 その〈声〉を聞くことができるのはポエやクロスのような一部の存在のみであり、普通は、ありえない。
「〈魂送り〉は死んだ者の魂を迷わないよう天に送ること。こいつは、まだ生きようとしている」
 生きようとしている者に、手助けしてはいけない。
 生命の理を、歪めてはいけない。
「言ったはずだ。情に流されてはいけないと」
 クロスの声音は酷く硬かった。鋭い眼光がポエを射抜く。
 そのあまりにも険しくも冷たい瞳に、一歩後ずさりそうになるのを、足に力を込めて何とか踏みとどまる。
「……情に、流されてるかもしれない。でも、それでも」
 ポエは、クロスの瞳を見返した。
「私は、この子を助けたい」
「その気持ちは大事だ。尊ぶべきでもある。しかし、助からなかったら?」
「私が〈唄〉を奏でます」
 ポエは腰のベルトについているポーチから、拳くらいの大きさのたまを取り出した。薄い黄色をしたそれは、まるで真珠のような光沢を放つ、暖かな光を纏う珠だった。
 ポエはそれを、空高く投げ上げた。かすかに差し込む太陽の光が当たると、まるで反響するかのように光があふれだした。
 刹那。宙を舞っていた珠は、瞬き一つで竪琴に変化した。光に照らされながら落ちてきたそれを両手でつかみ、ポエは言う。
「〈渡り鳥〉が生命の番人なら、『死』だけじゃなく『生』も助けることができるはずよ」
 そう言い放ち、ポエは歩きだした。
 彼女の言葉に、クロスは驚きもせず、彼女を再び引き留めることはしなかった。
 ただ、彼の瞳が憂いを帯びていたことを、ポエは気付くことはなかった。
「……絶対にやってみせる」
 湾曲した腕木をぎゅっと握りしめ、自分に言い聞かせる。
 できないことはない。きっと、できる。
 新緑の草を踏みしめて、ポエは〈琥珀鳥〉の前に歩み寄っていく。その音に〈琥珀鳥〉がゆるりとした動作で顔を上げた。
 ――瞬間、自分以外の誰かの存在に気付き、一気に警戒を強めた。喉の奥で唸り、ぶわっと羽が逆立つ。
 険をはらんだ獣の鋭い瞳が、少女を貫いた。
「大丈夫よ。私は敵じゃないわ」
 ポエは〈琥珀鳥〉の数歩前でしゃがみ、ゆっくりと手を伸ばした。
『クルナッ』
 キィッ、と甲高い悲鳴。〈琥珀鳥〉は逃げようと必死に翼をばたつかせているが、もう体に力が入らないのだろう、空しくもその場で体を揺さぶっているだけに見えた。
 ポエは悲痛に顔を歪め、そっと近づいた。傷口の三つの穴に手を、指を近づける。
『ッ!』
「……待ってね、今、癒してあげる」
 触られた傷口が痛むのだろう、〈琥珀鳥〉が小さな悲鳴をあげている。ポエは、それを見ないようにして言葉を紡いだ。
「祈りの声は儚き言霊。癒しの光を汝に与え給え」
 ぽう、と暖かな光が傷口を包み込む。痛みに苦しんでいた〈琥珀鳥〉も、その暖かな光が発せられた瞬間、穏やかな顔つきになった。
 ――けれど、
「っ!?」
 バチッ、と指先に激しい痛みが走った。片手に持っていた竪琴を落として、反射的に手を引っ込める。
 自分の指を見ると、真っ赤になっていた。しかも、何か鋭利なものでひっかいたような傷口ができあがっていて、そこから僅かに血が滲んでいた。
 ああ、失敗したんだと、気付いた。
『ッアアアア……』
 そして、はっとした。〈琥珀鳥〉の命が、終わりに向かってしまったということを。
 指の痛みを忘れて、落とした竪琴を拾い上げる。〈琥珀鳥〉の方へ顔を向けると、ばさばさと翼を揺らしてもがいていた。
 癒そうとしていた傷口は痕も無くきれいに塞がっていた。けれど、塞がっているように見えていても、内部に到達した傷までは癒せなかったのだ。
「ごめん、ごめんね……っ」
 でも、せめて、苦しまずに。
 ポエは泣きそうになりながらも気丈に振る舞い、竪琴を持ち直した。目をつぶり、神経を細く細く研ぎ澄ませていく。
 感じるのは、必死に生きようとする消えてしまいそうな命の光。
 その光がこの世界で迷わないように、天へと送る道標を作る。
『……ヤメロ……ヤ、メロ……ッ!』
 〈琥珀鳥〉のささやくようなか細い声は、しかし集中しているポエの耳には届かない。
 ポエは小さく深呼吸して、口を開けた。同時に、竪琴を爪弾く。
 ――高雅な旋律が、その場に広がった。竪琴から奏でられる音色は、どこか寂しげな雰囲気があった。
 不意に、ポエの髪が翻った。ふわり、ふわりと淡い光が溢れだし、不思議な発光体がどこからともなく現れて飛び回りはじめた。
 幻想的な風景の中で、ただ一人、クロスだけは険しい顔をしていた。
「心よ鎮め、心よ鎮め……絢爛けんらんの光は永遠とわに続く」
 紡がれる〈唄〉は、ほのかな慈悲の思いが旋律となって流れていく。尊ぶべき命が、せめて安らかに眠るようにと。
 ぽろん、と弦を一際強く弾いた。
「全ての想い、想いよ。空高く舞い上がれ」
 水晶を響かせるような音が響き渡った。竪琴の音の余韻が風とともに、森の中を通り抜けていき、やがて消えた。
 いつの間にか、溢れていた発光体も消えていた。静かな場所に戻った森に、ただ、〈琥珀鳥〉の体だけが淡く光っていた。
 ポエは脱力し、足から崩れ落ちる。手から離れた竪琴も地面に落下して小さな音を立てた。
 乱れた息を整えるように、胸元を押さえる。
『……オ、マエェ……ッ』
 その時、〈琥珀鳥〉の声が耳に届いた。それは憤りにも似た、怒りの情がはらんだ声。
 そのあまりにも恐ろしい声音に、ポエはびくりと肩を震わせた。目線を〈琥珀鳥〉に向ける。つり上げた怒りの目と、ぶつかり合った。思わず息を止める。
 けれど、その目が消えた。一瞬にして〈琥珀鳥〉の体は光に包まれて、魂だけの存在となってしまったからだ。丸い珠が光を放ちながら、ふわふわと宙に浮いている。
 その儚くも危うい存在になっていても、殺気にも似た怒りの情が消えることはなかった。
『ウラム……ウラムゾッ!』
 私は、おまえをゆるさない。
「え……?」
 少女は小さく声を上げたが、〈琥珀鳥〉の魂はもう消えてしまっていた。座り込んで呆然と魂の珠があった場所を見つめていても、もう、彼の言葉の意味を知ることはできない。
ことはできない。
「……彼の言葉が、気になるかい?」
 かさり、と背後で草を踏む音が聞こえた。歩み寄ってきているのであろうクロスに、ポエは振り返ることもできずに頷いた。
「誰もが、死を受け入れているわけじゃあない。彼はまだ死にたくなかったんだ」
 ポエはうつむく。ずきり、と何かが心の中で痛んだ気がした。
 クロスは彼女の隣までくると、腰を落として彼女の竪琴を拾い上げる。表、裏と見返して、どこにも傷が付いていないことを確認すると、ほっと息を吐き出した。
「君は、彼を助けようとしたかった。だが、死なせてしまった……無理矢理、彼の魂を天に送った」
 そう、そうだ。
 私は〈琥珀鳥〉の魂を無理矢理に送ってしまった。
 意識のどこかで気付いていたそれを、気付かないふりをして唄を奏でた。
 ポエはぎゅっと手を握りしめた。悔やんでも、今更〈琥珀鳥〉の魂が還ってくることはない。
「彼は最期まで生きたかったんだと思う。……生き物は皆、死を迎える。それが遅かれ早かれ、それが命というものだ」
「……はい」
「それを俺たち〈渡り鳥〉は、命の時間を操れてしまうんだ」
 ふっと、彼の手中にあった竪琴が消えた。代わりに現れた淡い珠を握りしめて、彼女の前に差し出す。
「俺たちは命の番人。だから、生命の重さを知ることが大切なんだ」
 差し出された珠を、ポエは黙って受け取った。
「助けるな、とは言わない。けれど、むやみに助けるものでもない。それだけは分かってくれ」
「……はい」
「命は平等であり、不平等だからね」
「……ちょっと、分かりません」
 難しい言い回しをするクロスに、ポエは首を傾げた。くすりと笑う彼は、「追々分かっていけばいい」と答えた。
 彼の言葉を理解するのには、時間がかかりそうだ。
「さて、もう大丈夫か?」
 クロスが立ち上がりながら問いかけてきた。
 ポエは慌てて立ち上がると、腰のポーチに珠を入れて、彼に向きなおった。
「はい。大丈夫です」
「そうか。なら行くぞ」
 クロスはポエの返事に笑顔を向けて、翼を大きく広げた。重力を感じさせない動きでとんっと地面を蹴ると、羽ばたきでぶわりと風が巻き起こった。
 ポエも同じように地面を蹴って羽ばたく。背の翼が大きく上下に動けば、徐々に空へと近づいていく。
「一人前の〈渡り鳥〉になるのはまだまだ先だな」
「むっ……がんばります」
「はは、期待している」
 二つの影が空へと姿を消した。その場に残されたのは穏やかな静寂。
 ふわり、と落ちてきた小さい羽根が風に乗ってまたどこかへと流れていった。


もどる