二話 VARIABLE 3

 ミーシャたちが乗船して二日目。
 昨日まで見えていたアルセウス島が完全に見えなくなり、明日にはクリオス大陸に着く予定だ。

 ――――……予定なのだが。


「うぅー……きもちわるい……」

 初めて船に乗ったミーシャは、案の定船に酔ってしまった。
 乗り込んだ当初は好奇心が勝っていたから平気だったのだが、徐々に落ち着いてくると船の揺れを敏感に感じ、三半規管がぐるぐると揺れている感覚に、ダウンした。
 胃の中に入っているものがせり上がってきている。
 ――だ、だめだ……吐きそう……。
「まったく……酔い止めの薬は持ってきていないのか?」
 とりあえず心配はしてくれているらしいラシュウの質問に、首を横に振る。あ、さらに酔いが……。
「……もってな……い」
 ベッドの上に寝転がるミーシャ。顔は青ざめていて、心なしか唇も紫色に近い。

 ――……まあ、無理もないかと心の中でラシュウは思った。
 普段、移動する時に使うのは馬車だ。それか徒歩、もしくは<風流(ふうりゅう)>。大陸を跨ぐのはこれで二度目――一度目は里からアルセウス島に向かう時に――なので、船に慣れていないのも……酔ってしまうのも仕方が無い。
 ふよふよと空中を漂っているラシュウといえば、船の揺れは感じないので船酔いすることはない。
 ――それ以前に、精霊が船酔いなんてしないと思うが……。

「体調管理ぐらい自分でしろよ……」
 ため息を吐きたくなるのを堪えて言うと、弱々しい声音が耳に届く。
「む……り、だ……て……」
 ――ああ、完全に酔っている。これはもう駄目だ。安静にさせておいたほうがいいだろう。
 いつも軽口を叩くと本気にして返してくる彼女の声が聞けないことに、若干の憂いを感じながら、何かできることはないだろうかと思案する。
「……外で、風にでもあたったらどうだ?」
「…………ねる……」
 しかし彼女はきっぱりと短く言い残して、ベッドにダイブするとシーツに包まった。
 寝る準備に入った彼女を見つつ、ラシュウはふわりと部屋の外へ通ずる扉へ向かう。
「じゃあ、俺は外にいるからな。ちゃんと寝てろよ」
 シーツの隙間から見える鴇色の頭がこくりと上下した。
 これ以上話しかけない方が良いだろう。ゆっくりと音を立てないように扉を開けたラシュウは、部屋を出て行った。





 ※





 ラシュウは甲板に向かった。
 人影は、ない。一人しかいないこの場所は、何故だか寂しい気持ちにさせた。

 吹き抜ける海風が心地よい。暑くも、寒くもない。
 海はごおごおと波がうねり、空では鳥たちが飛び交う。
 蒼く、額の先に突き出た触角のような、特徴ある独特の羽根を持つ鳥。彼らはこの海にしか存在しない。
 名はリヴィアスという。ブルーの瞳には、神秘的な輝きが秘めている。

「……そういえば」

 あいつも、船は駄目だったなぁ…………。
 ラシュウの脳裏に……長い髪の、女性の後ろ姿がよぎる。

 あいつに仕えていたあの頃。随分と昔のことだ。
 ふと郷愁に似た感情が沸き起こり、懐かしむように脳裏の彼女の姿を愛しく見つめる。
 もう見ることのできない彼女の姿は、今でも鮮明に思い出すことができる。
 どれほどの時間が経とうとも、この記憶は失わせない。喪わせたくない。これだけが、彼女の存在を確定させる、唯一のものだから。
「……馬鹿か、俺は……」
 はっとして我に返る。今まで感じていた感情が心の奥底に沈んでいった。
 何故、今こんなことを思い返しているのだろう。ラシュウは内心の疑問に葛藤するが……言い表すことのできない何かに、ただ不安ばかりが重くのしかかった。
 不安定なものを振り払うように顔を横に振る。
 視界の隅をかすめたバンダナが、妙に彼女を意識させた。


「…………らしゅー……」


 唐突に背後から聞き慣れた声がした。今は部屋で寝ているはずの少女の、声。
 思わず振り返ると、そこにミーシャがよれよれの状態で歩いてきた。
 大人しく寝ていると言ったのはどこのどいつだ!!
「おい!?」
 慌ててラシュウはミーシャに近寄った。
「風に、あたるといいんでしょ〜……」
 言葉にいつもの元気がない。やはりまだ酔っているようだ。
 今更部屋に戻すのも負担になりそうなので、ラシュウはよれよれとしているミーシャを全身で支えながら手すりに体を預けさせた。全体重が後ろに向けられると海に真っ逆さまなので、慎重に慎重に。
 ラシュウの気遣いを知ってか知らずか、ミーシャはそっと微笑を浮かべる。
「……うん、風にあたると平気かも」
 部屋にいたときよりも、体が軽い気がする。
 頬を撫でる風が温かい。海風とは違うそれに、今のミーシャはそれに気付くことはなく。
「貴様は自分で体調管理できんのか」
 二度目の台詞に、ミーシャはいつものように頬を膨らませた。
「無理だってば!」
 いつものようにミーシャが返すと、ラシュウは苦笑した。
 ――まったく、あいつ同様におっちょこちょいな奴だ。
 この時、こっそりとラシュウは<癒しの風>を吹かせていたのだ。
 <癒しの風>というのは、その名の通り癒しの力を持つ風のことだ。己の持つ気を風に含ませ、癒しを促す。
 彼女の体を気遣っての行動は秘密裏に行われていて、それを知ったならば少女は喜び跳ねるだろう。簡単に想像できる姿に、内心微笑む。
「ねぇ、ラシュウ」
「なんだ?」
 内心のことを悟られないよう、ぎろりと睨み返す。
 しかし、ミーシャはそれを笑みで返した。
「やっぱり、なんでもない」
「……ふん」
 彼の態度に、ミーシャは安堵した。

 ――――良かった……いつものラシュウに戻ってる……。

 船に乗り、世界の地理について話してから彼の態度は妙に変だった。
 それを感じていたミーシャは少し心配だったのだ。だが、それも杞憂に終わったらしい。
 考えごともつかの間、再び体が揺れ始めた。
 否、揺れ始めたのは感覚だけだ。ぐるぐると揺れる脳裏に、口元を覆う。
「うぅ……気持ち悪くなってきた……」
「っおい!」
 いきなり変わった彼女の変化に、ラシュウも驚く。彼は慌てて<癒しの風>の力を強めた。
「……体調悪くするなよ……せっかく俺が<癒しの風>を使ってんのに……」
「…………え?」
 いきなりの告白に、ミーシャは思わず目を見開く。
 ――あのラシュウが、自分に力を使っているなんて!
「っ! 今のは聞き流せ!!」
 無自覚の内に言葉にしてしまったラシュウは慌てて言うが、しかしミーシャはきらりと瞳を輝かせていた。
 それを見て、うっと呻いて後ずさる。
 顔に熱が集まってきて、恥ずかしさのあまりその場を逃げ出す。
「ねぇ! ほんとなの? 力、使ってたの?」
 背後から迫ってくる声に、ラシュウはぶんぶんと頭を振りつつ耳を塞いだ。

「聞き流せぇ――――――っ!!」

 晴れ渡る青空の下。ラシュウの叫びが遥か彼方にまで木霊した。

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<初稿:04/03/??/改稿:08/06/22>