――――遠い、昔の記憶がふと脳裏をかすめた。
『なぁ、ラシュウよぉ』
いつもいつも、自分の事を呼び捨てにしていたあの女。
呼ばれて振り向いてみれば、女の視線は上にあった。見上げて、睨みつける。
『なんだ?』
……あの女は、いつも笑っていた。けれど、今日はなぜだか、しんみりとしていた……気がする。
『ラシュウは、ずっと俺に従っているのか?』
一人称は俺で、いつもいつも男みたいな喋り方をした変な奴。
変な奴なのに……どこか、心が休まるように感じて、陽だまりのように温かかった。
だからか、彼女がそんな突拍子もない疑問を問いかけてきた時は、心底驚いてしまった。
『はぁ?』
『だから、俺がお前を召喚したろ? 俺が死んだら、どうすんのかなぁって』
そう、彼女は俺を召喚した。だから、俺はお前に従っている。
女は空を見上げた。
のんびりと雲が流れ、澄みきったその青空は、まるで、彼女の瞳のようだ。
ラシュウは、彼女の問いに戸惑った。
これから先のことなんて、考えてもいなかった。
どうなる、なんて……ただただ自分が生まれていた場所に戻るだけだと、召喚された時は思っていたはずなのに。
今は、ただこの安らぐ暖かな場所にいたいと思うなんて。
『さぁな……どうなるんだろうなぁ』
俺が言うと、彼女はくすりと笑った。
『俺さ、里に戻ろうかなって思ってるんだ』
『里に? お前、一生戻らないんじゃなかったのか?』
俺の言葉に彼女は笑いながらも『そうだったね』と答えた。
その後、でも、と小さく呟くように続けられた台詞に、思わず彼女を見入ってしまう。
『でもさ、娘を……ミーシャを、ずっと一人にしているのは、かわいそうかなって……』
そういえば、彼女には娘がいた。
たった一人の、
母性本能というものが、彼女を突き動かしているのだろうか。俺には分からなかった。
『確かにな……じゃぁ、今から里に戻るのか?』
『それをどうしようか、今考えてるんだよ』
うーんうーん、と顎に手を添えながら唸っている。
――――この女はっ……いつもいつも考えずに歩くからこんなことになるんだ。
『お袋に、ミーシャのこと任せっぱなしだしなぁ……』
――後先考えずに突き進むからだっ! ……それで、こういう場合は、大抵俺に問いかけてくるんだよな。
『なぁ、ラシュウ。どうすればいいと思う?』
ほら、やっぱりだ。内心、ラシュウはほくそ笑んだ。
そして、思うままの言葉を口に出す。
『別にどっちでもいいんじゃないのか? お前の好きなようにすれば』
きっぱりと言い切ってみせると、彼女は目を丸くした。傍から見れば阿呆面にも見えなくないが、本気で驚いているらしい彼女の姿に、こちらも少し目を見開く。
『好きなように、か……』
『そう、好きなように』
口端を吊り上げて笑うと、彼女はそうかと頷いて再度考え始めた。
……しきりに唸っている。見ていてあまりいいものではないが、こうして傍にいられることに、何故だか安堵する。
ふと、女が口を手で覆った。
『うっ……下を向くと気持ち悪くなる……』
自業自得だ。
『阿呆だろ、お前』
船に乗り込んだものの、波に揺られて上下する船の動きにやられてか、彼女は船酔いした。
風に当たればいいだろう、というラシュウの一言に甲板に出てきたのは先ほどのこと。同じ過ちを繰り返した女を見て、ラシュウはため息を吐きたくなった。
『馬鹿だな』
一言、ラシュウが呟いた。むっと彼女が眉を寄せる。
今、彼女たちがいる甲板に他の人影はなく。涼やかな風が、彼女の鴇色の長い髪をそよがせていた。
『馬鹿言うな。……ラシュウ』
『なんだ馬鹿女』
再び彼女は眉を寄せる。
『馬鹿女と呼ぶな。……頼む、<癒しの風>やって』
『ハッ。自分でやれ』
吐き捨てるように言い放った。
多少言葉が荒いのは仕方が無い。……これで諦めてくれるならいいものだが、彼女の性格上それはありえない。
そう思っていた矢先、額に巻くバンダナを彼女が思いっきり引っ張ってきた。
――――く、首が折れるっ!!
『頼むよラシュウ〜。君だけが頼りなんだ〜』
『嫌だ! っていうか、引っ張るな!! 首が折れるっ!』
『た〜の〜むぅ〜』
先程よりもさらに強く引っ張られ、首がおかしな方へ曲がりそうになる。痛いとかそんな場合じゃない。
これ以上引っ張られると首がもげる!
それでも反論を試みるが、あまり意味は無かった。
『だからっ、バンダナを引っ張るなっ! ……破れる!!』
今にもビリッと破れそうなバンダナに、思わず手を添えた。
すると、彼女の引っ張る力が弱まった。
『えっ、ラシュウ? もしかして、このバンダナ大事にしてくれてんの? やばい、嬉しいなぁ〜』
彼女の台詞に、胸が跳ねた。
ばっと思い切り頭を振って彼女から距離をとった。バクバクと跳ねる心臓が妙に煩い。
『おまっ、ち、違う!! 違うからな! 別に大事にしてるわけねぇだろ!』
取り乱してしまったラシュウをよそに、けらけらと彼女は笑った。
――実は、この笑顔が好きだったりするのだが、今のこの状況でそんなことを思っていられるわけもなく。
顔に熱が集まりはじめて、顔を背けたくなる。
ニヤニヤと笑う彼女を横目に見ながら、ラシュウはバンダナに触れた。くたびれた白い布地は擦り切れそうで、それでも大事に扱っているからかまだつけられそうだ。
……なんて、心の片隅で思ってみたりしたものの、何だか気恥ずかしくなってさらに熱が集まった。
『おやぁ? 以前の戦いで破けたはずの部分が縫ってあるなぁ〜。これは何でかなぁ〜?』
答えが分かりきった問いかけに、今にも沸騰しそうなほど熱くなった顔が、さらに熱くなった。
『っ! …………な、直したんだよ』
これ以上言い訳できるわけもなく、降参だとばかりに口を開くと彼女はぱあっと笑顔を浮かべた。
『やっぱり大事にしてくれてるんだー! 嬉しいぞっ!』
『ぐあっ! こら、抱きつくな! 苦しい!』
抱きつく、というよりは、捕まえた、というほうが正しいか。
バタバタと暴れるラシュウだったが、人と精霊の体格差には勝てずされるがまま。
ぐりぐりと頬を寄せてくる彼女を押しながら、どうやってこの場を抜け出そうか思考する。
『……ラシュウ』
いきなり、彼女の手の力が緩んだ。
ラシュウは暴れるのをやめて、そっと彼女の顔を見上げる。どこか寂しげな表情を浮かべていた彼女の瞳が、真っ直ぐ自分を見つめていた。
『なんだ? いきなりかしこまった顔しやがって』
彼女は手を離して、俺はその手の中から飛び出した。
いつもと変わらない風景、いつもと変わらない隣の暖かさ……なのに、なにかが違う。
真っ直ぐ見つめる紺碧の瞳は、空のように澄んでいて。
『お前さ、俺が死んでも……ミーシャのこと、よろしくな』
その言葉は、今までの約束の中で、一番重い約束だった。
『これから先、何が起こるか分からない。今も、あいつらは動いている』
『……そうだな』
『だから――――』
――――――ミーシャのこと、頼んだよ……
「……」
ラシュウは船の、帆の上に座っていた。
海風がそよぎ、髪が翻る。ラシュウの見つめる先にあるのは、古代の文明が色濃く残る場所……クリオス大陸。
――彼女が、最期にいたあの大陸。
「……お前は」
娘がここに来るのを、知っていたのか?
心の中に残る、彼女に問いてみたが、返事はない。ただ、笑っていた。俺の好きな、彼女の笑み。
「お前の約束、必ず守るよ」
ラシュウは立ち上がって、甲板に降り立った。
風は、静かな海を渡って空に駆け上がった。