二話 VARIABLE 1

 風神とラシュウによって、この場を包み込んでいた風の“よどみ”は浄化された。
 そして、ミーシャが目を覚ましたのは、浄化してから二時間くらい経った後だった。目を覚ました直後、ラシュウから嫌味の激励の言葉が送られたのは言うまでもなく。
 しかし、ギャーギャーと喚き散らす中出てきた名前に、思わず目を見開いた。
「えっ! 風伯(ふうはく)さまが!?」
 風伯というのは風神(かぜかみ)の別名だ。風の民は、風神のことを風伯と呼び讃えて敬っている。
 しかし彼女曰く、讃えられても何があるわけでもなく。鬱陶しいだけだと呟いたのは、ラシュウだけが知っている。
「そうだ。貴様は寝いてるしなぁ」
「寝てないよ! 気絶よ、気絶! ……それに、浄化の仕方なんて、知らないもん」
 ラシュウが嘆息を吐く。
 それと同時に、未だ倒れ伏しているラスクを凝視した。
「風の民は、教わらなくとも知っているんだ」
 素っ気なく言う。
 ミーシャは風の民。風を清める力を持っている。

 しかし、このラスクという少年は――――

 この少年は普通の人間だ。風を清める力なんて……ない。
 あるはずがない。





 ※





「風神よ。この少年のこと、どう思う?」

 ラシュウは倒れているミーシャの隣で、同じように倒れている少年を凝視した。
「……普通の人間…………ではないな……」
 風神も、ラシュウと同じく少年を凝視する。
 いや……少年を凝視しているわけではない。
 少年の……少年の体から放たれる<浄化の力>を持つ気を見ていたのだ。
「人間ではないのなら――」
「我が思うに、この童はノーディウルだな」
 ラシュウの言葉を遮って風神が言う。俺が言おうとしていたのに……むすっと、ラシュウは怒りの瞳を風神に向けたが、風神は見向きもしなかった。

 ノーディウルというのは異世界に住まう人に似た魔物だ。
 その容姿は人に似ていて、自給自足の集団生活をしているという。
 温厚な性格で知られる彼らだが……稀に、畏怖とも呼ぶべき存在が生み出されるときも、ある。
 残虐な性格と畏怖べき力を兼ね備えた魔物。時には同族を襲い、弱い魔物を襲い、ただひたすら自分の愉しみの為に血を浴びる、魔物。

 それを見たことがあるラシュウは、表情を曇らせた。
「誰かの……たぶん……魔導師の召喚獣(マガラ)だ」
「魔導師……?」
 そうだ、と彼女は頷く。
「魔法を操る者の中で、召喚魔法に優れている奴のことを『魔導師』と呼ぶ。……我はあまり好きではないがな」
 魔法使いには大きく分けて『魔術師』と『魔導師』の二つの種類がある。
 魔術師は一般的な魔法使いのことをいう。魔法大国と呼ばれるヘモス帝国出身の者が大半だ。自然と魔法と呼ばれるものを操ることができる者も少なくない中で、ヘモス帝国はその力を潜在的に持つ者が多い。
 そして、もう一つが魔導師。
 先の魔術師の中で、異世界から召喚獣を呼び出し、下僕として操る能力の『召喚魔法』に優れた者はこの呼び名がつくのだ。
「まったく……誰の召喚獣なのやら…………」
「さてな……」
 ラシュウは小さく嘆息を吐いた。
 魔導師はただ自分の利益の為だけに、異世界からの存在を召喚する。そこに意思は必要ない。
 たとえ抗おうとも、力に捻じ伏せられてしまうのだ。是としないものでも、魔導師にとってそれは意味の無い言葉となってしまう。
 抗うだけ自分に圧し掛かる力が増大し、圧迫する。息もできなくなる様な締めつけに、幾度苦しみを吐いたのだろうか。

「あいつらは、自分勝手に我らを動かす。我らの気持ちも考えず――――」

 ふむふむ、と納得していたラシュウは、風神の言葉に不思議な響きがあるのに気づき、
「……まて、まてまて!」
 眉を寄せて、ラシュウは呻くように風神の言葉を遮った。
「いつ、俺が、召喚獣になった! 召喚獣になった覚えはないぞ! しかもお前も違うだろっ!」
 激昂するラシュウに、風神はふんと鼻を鳴らした。
「もののたとえだよ。それにお前は、こいつに従っているであろう」
 そう言って、風神は倒れている少女を指差す。
「…………」
 どうやら図星のようで、ラシュウは口をつぐんだ。
 苦虫を噛み潰した表情を浮かべたまま数秒が経ち、はっとして彼は声を荒げた。
「で、でも! 俺は召喚獣じゃない! 精霊(エルフ)だ!!」
 反論するものの、どこか論点がずれている気がするのは……この際だ、気のせいということにしておこう。
 怒気をはらんでいるからか、ラシュウを取り巻く風が、ごうと音を立ててうねる。
「そう怒るな。……我とて同じこと。人間に従うなど、神の名が廃る」
 まぁ、こいつは別だがな。

 そう言い残して、風神は鳥の姿に変化し塵のように消えた。





 ※





 ――――たぶん……魔導師の召喚獣だ。


 風神の言った、あの言葉が脳裏をよぎる。
 誰がこんなことをしたのか、分からない。分からない分どうしても焦りがでてしまう。
 ラシュウは内心の焦りを感じさせないよう、努めて冷静な表情を浮かべた。
「……とにかく。今日中にこの島を出るぞ」
「えっ? どうして!?」
 驚きに、ミーシャは目を丸くした。
 まだ彼との約束の日は残されている。何だかんだと言って彼は待っていてくれたのだ。
 しかし、ラシュウは「どうしてもだ」と強い口調で言い返した。
「まだあと一日あるよ!」
 やりきれない思いを抱いて、ミーシャは叫んだ。
 それを横目で見ていたラシュウは、小さくため息を吐いた。
「……明日、明後日にこの島の周辺の海域に渦潮が発生するようだ」
 その台詞に、はっとする。
 この島の海域にはいくつもの海流が流れていて、月に何度か島を取り囲むように渦潮が発生し、外との交通が出来なくなるのだ。それは何週間も続き、最悪、渦潮がなくなるのは一ヶ月かかる場合もある。
 つまり、移動が出来ないのだ。
 アルセウス島は、渦潮により外との交わりを遮断される島として有名だった。
 それを思い出したミーシャは、しかし感情が先走ってしまう。
「どうしてそんなことが分かるのよっ」
「風がそう言っている。もうすぐ海が荒れるようだ、と」
 ラシュウの言葉を聞いて、ミーシャは本当のことだと悟った。
 彼は風の精霊だ。風のことをよく知る彼が言うのだから、嘘偽りはないのだろう。
「貴様のせいで、何週間もここに止まるのは御免だ」
「で、でも……」
 そしたら、ラスクと最後のフルートの練習ができなくなってしまう。

「……悪かったよ……」

 ぼそっと、本当に小さな呟きだった。
 そんな小さな声を、ミーシャは聞き取っていた。ラシュウは明後日の方向を向いている。
「……?」
「あの時、吹けるはずがないって言っただろ? ……俺が、悪かった」
 顔を背けているため、彼が今どんな表情をしているのか分からない。
 けれどもラシュウの言葉には……どことなく、優しさが込められているような気がした。
 ――確かに、あの時は私も大人気なかった、よね。
 あの時のラシュウの言葉に怒ったのは、いつまでも子供じゃないところを見せたかったから。けれどもやはり投げ出すことになって、本当に悔しくて。
 それでも結局は優しく慰めてくれるんだから……少しぐらい、甘えてもいいよね。
「……うん」
 ミーシャが笑みを浮かべた。


 ……ふと、ここでミーシャの脳裏にふっと疑問が落ちてきた。
「思ったんだけどさ、<風流>を使えば海を渡れるんじゃないかなぁ」
 そうすれば渦潮なんて関係ないじゃない。
 そう言えば、ラシュウは肩を震わせていた。
「――――とことん馬鹿な奴だなぁ、貴様は!」
 肺の空気が無くなるまでため息を吐いたラシュウを見て、眉を寄せる。
「む! ばかじゃないよ!」
「いーや、貴様は馬鹿だ! あのなぁ<風流>にも移動できる距離があるんだぞ! 知ってるか!? 知らないだろ!? 貴様は馬鹿だから!」
 最後の『馬鹿だから』発言に、ミーシャは額に青筋を立てた。
「いいか、俺たち風の精霊は、風の事をよぉ――――く知ってるんだぞ。だから、風の使い方も、使っている間に身にかかる負担も、自然と知っているっ」
 ずばずばと言葉を並べていくラシュウ。彼が言うには、<風流>の最大で移動できる距離は一キロメートルくらいらしい。
 あ、それじゃあ無理だなんて脳裏の片隅で納得していると、再び耳にため息が聞こえた。
「はぁ……風の民なら、みんな知っていることなのになぁ……」
「悪かったわね!」

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<初稿:04/03/??/改稿:08/06/22>