早く早く、と逸る気持ちを抑えながらミーシャは走る。
どこをどう辿ってきたのかは分からないが、無意識の内に彼女は再びその場所に足を踏み入れた。
――まずは彼に会って……謝らないと。
これは自分のせいなのに、彼は見ず知らずの自分の為に、手伝ってくれている。
投げ出したのに、そして今やはり戻ってきた自分を見て……それでもきっと、彼は笑顔を浮かべて「大丈夫ですよ」というのだろう。
ほんの数日しか一緒じゃなかったのに……何故だか、彼の言いそうな台詞が、浮かんだ。
思わず、頬の筋肉がゆるむ。
丘を駆け上ったミーシャは、下方にいるであろう彼を探した。
「ラス…………ッ!?」
しかし、彼の名を呼ぼうとして、はっと息を止めた。
――まるで、ミーシャの感情を表しているかのように、荒れた風が吹き抜けた。眩暈がしたかのように視界が歪み、氷塊が背筋を滑り落ちた。
どうして、何故、という疑問ばかりが浮かんでは消える。
とにかく今は目の前の現状をどうにかしなくては、という思いだけが体を突き動かしていた。
彼女の視線の先には、青い顔をして倒れているラスクの姿があった。
「ラスクっ!」
ざざざっと、流れるように丘を駆け下りる。
「ラス……っ?」
彼のもとに駆け寄ったミーシャは、しかし感じた違和感に口を手で覆った。
生ぬるい風が頬を撫でる。気持ち悪さと吐き気が沸き起こり、眉を顰める。
「なんなの……この、“よどみ” …………」
普通の人間には見えない風の流れ。それをミーシャは見ることができる。
彼女の目には、よどんだ風が辺りを埋めつくしているのがはっきりと見えた。
ミーシャは――風の民は、風を操ることができる。風は常に生活の傍らに存在し、なくてはならないものとして扱った。
そんな民から見れば、この場を包み込む風の“よどみ”を異常と感じ、すぐに浄化をする。
風の民は己の体から出される気で、“よどみ”を無くしてその場の風を清浄にするのだ。
気、というのは表現が難しい。風の民からすれば、それはオーラとかそういったものだと表現しているが、実際どういったものかはわかっていない。
ただ、自分自身を守るものと考えている。
自分自身とは無関係に、民は常にその気を放出している。だからか、自分たちに向けられた悪意あるものの気配を察知しやすい。
「くっ……つら、い……」
意識が朦朧とする。目の前の景色が、少しずつ歪んできた。
風の民であるミーシャは、風を清める力がある。しかし、この時はまだその方法を知らなかった。知らなくても生きてこれたからだ。
ここで浄化の力を使えば、この場をやり過ごすことができただろう。
しかし、幼い彼女には何もできなかった。
吐き気が喉にまでせり上がってくる。
「もう……だめぇ…………」
弱々しく呟くと、ぱたりとラスクの隣に倒れ込んだ。鴇色の長い髪が、ざんばらに広がった。
風は未だによどんでいる。
しかし、ミーシャ自身から放出される気の力で、浄化の作用が働いていた。
少しだけ清められた風が吹きぬけるものの、その風も次の瞬間にはよどみに転じている。
そこへ、一陣の突風が吹き抜けた。
緑色の人影が二人の上空に現れ、その光景に目を見張る。
「……ちっ!」
ラシュウは倒れているミーシャを見るなり舌打ちした。
そして空に手を向けて、<風技>の呪文を唱え始める。流れるように紡ぎだされる言霊に、風が揺れ踊った。
最後の一節が発せられると、瞬いた刹那、ラシュウを中心に強風が辺りを翔けた。
「――――はぁー……」
止めていた息を、長く吐く。
“よどみ”は今の風で吹き飛ばされた。浄化とはまた違った方法で行った、いわば強硬手段。
その強引とまでいった行動をとらざるを得なかった状況に、再びラシュウは息を吐いた。
『――――……お主もやるようになった…………』
どこからか声が聞こえた。低い、女の声だ。
ラシュウはその声に嫌悪を表した。
「……風神」
その声に答えるかのように、ふわりと大きな鳥が姿を現した。
神秘的なエメラルドの瞳は鋭く、
細長い尾が、ぴしりと揺れた。
「風神、何の用だ?」
「神にむかってそのような言動でいいのか?」
見下したような風神の台詞に、しかしラシュウは仁王立ちになった。
「お前を敬う気は一切無い!」
きっぱりと言い放った。
「くくくっ……そう言うと思とったぞ」
風神は苦笑を浮かべながら、ラシュウを見やる。彼は素知らぬ顔で鼻を鳴らした。
そんな彼の態度に風神は、やはり苦笑を浮かべた。
「せっかく我が来てやったというのに……」
「で、何の用だ?」
硬い声音で問いかけるラシュウに、彼女はただ笑うだけ。
「お主も分かっておるだろう……?」
突如、突風が巻き起こった。いきなりのことに腕で目を隠し、風をやり過ごす。
一瞬にして風は止んだ。腕をどけると、いつの間にか鳥の姿だった風神が人の姿になっていた。
瞳は鳥のときと同じエメラルド。髪はゆるいくせのある翡翠色の長髪。胸元には真紅に輝く宝石がきらめき、唇には薄い紅をさしている。
ひらりと服を揺らして、彼女は微笑んだ。
「やはり、こちらの姿のほうが我は好きだ」
「そんなことはどうでもいい。何の用があるのか聞いている」
ラシュウの素っ気ない態度に、風神はやれやれと肩をすくめる。少しぐらい冗談に付き合え、と彼女が思っていたことをラシュウは知る由も無かった。
「……気付いているか? この風の“よどみ”」
ラシュウは無言で頷いた。
それを見て、風神は話を続ける。
「誰の仕業か分からぬが、そやつらは我らに敵意があるのだろうな」
風をよどませるなんて、並大抵のことではできやしない。風の民でさえも、よどませることは難しい。
それをやってのけた人物がいる。今はまだ表に出てこない、裏の人物。
「そうだろうな……そうでなきゃ、こんなことしない」
ラシュウは腕を組み、空中で胡座をかく。風神は彼を見つつ、彼方を見やった。
「やはり……あいつらの…………」
囁きにも似た言葉が落とされる。
それはどこか悲しみを帯びていて、風神は視線を彼に戻した。
――痛みを堪えているような、そんな表情をしているラシュウ。彼自身それを自覚はしていないだろう。
彼はどこか変なところで意地っ張りだ。風神は、内心ため息を吐いた。
「あぁ。たぶんお前の考えているとおりだ。……こやつには、まだ言わぬほうがいいだろう……」
風神が目線だけをミーシャに向ける。ラシュウもその目線を追って、ミーシャを見た。
未だ何も知らない少女。
純粋で、無垢な少女には……今はまだこれは重すぎるかもしれない。
「……さて、ここの風も清めんとな。お主も手伝え」
「なぜ俺が?」
「口答えは赦さん。ほれほれ、さっさとしないか」
ラシュウは、風神に気づかれないようにそっとため息を吐いた。