一話 笛の音響く風の音 5

 早く早く、と逸る気持ちを抑えながらミーシャは走る。
 どこをどう辿ってきたのかは分からないが、無意識の内に彼女は再びその場所に足を踏み入れた。

 ――まずは彼に会って……謝らないと。

 これは自分のせいなのに、彼は見ず知らずの自分の為に、手伝ってくれている。
 投げ出したのに、そして今やはり戻ってきた自分を見て……それでもきっと、彼は笑顔を浮かべて「大丈夫ですよ」というのだろう。
 ほんの数日しか一緒じゃなかったのに……何故だか、彼の言いそうな台詞が、浮かんだ。
 思わず、頬の筋肉がゆるむ。
 丘を駆け上ったミーシャは、下方にいるであろう彼を探した。

「ラス…………ッ!?」

 しかし、彼の名を呼ぼうとして、はっと息を止めた。

 ――まるで、ミーシャの感情を表しているかのように、荒れた風が吹き抜けた。眩暈がしたかのように視界が歪み、氷塊が背筋を滑り落ちた。
 どうして、何故、という疑問ばかりが浮かんでは消える。
 とにかく今は目の前の現状をどうにかしなくては、という思いだけが体を突き動かしていた。
 彼女の視線の先には、青い顔をして倒れているラスクの姿があった。
「ラスクっ!」
 ざざざっと、流れるように丘を駆け下りる。
「ラス……っ?」
 彼のもとに駆け寄ったミーシャは、しかし感じた違和感に口を手で覆った。
 生ぬるい風が頬を撫でる。気持ち悪さと吐き気が沸き起こり、眉を顰める。
「なんなの……この、“よどみ” …………」
 普通の人間には見えない風の流れ。それをミーシャは見ることができる。
 彼女の目には、よどんだ風が辺りを埋めつくしているのがはっきりと見えた。
 ミーシャは――風の民は、風を操ることができる。風は常に生活の傍らに存在し、なくてはならないものとして扱った。
 そんな民から見れば、この場を包み込む風の“よどみ”を異常と感じ、すぐに浄化をする。
 風の民は己の体から出される気で、“よどみ”を無くしてその場の風を清浄にするのだ。
 気、というのは表現が難しい。風の民からすれば、それはオーラとかそういったものだと表現しているが、実際どういったものかはわかっていない。
 ただ、自分自身を守るものと考えている。
 自分自身とは無関係に、民は常にその気を放出している。だからか、自分たちに向けられた悪意あるものの気配を察知しやすい。
「くっ……つら、い……」
 意識が朦朧とする。目の前の景色が、少しずつ歪んできた。
 風の民であるミーシャは、風を清める力がある。しかし、この時はまだその方法を知らなかった。知らなくても生きてこれたからだ。
 ここで浄化の力を使えば、この場をやり過ごすことができただろう。
 しかし、幼い彼女には何もできなかった。
 吐き気が喉にまでせり上がってくる。
「もう……だめぇ…………」
 弱々しく呟くと、ぱたりとラスクの隣に倒れ込んだ。鴇色の長い髪が、ざんばらに広がった。

 風は未だによどんでいる。
 しかし、ミーシャ自身から放出される気の力で、浄化の作用が働いていた。
 少しだけ清められた風が吹きぬけるものの、その風も次の瞬間にはよどみに転じている。






 そこへ、一陣の突風が吹き抜けた。
 緑色の人影が二人の上空に現れ、その光景に目を見張る。
「……ちっ!」
 ラシュウは倒れているミーシャを見るなり舌打ちした。
 そして空に手を向けて、<風技>の呪文を唱え始める。流れるように紡ぎだされる言霊に、風が揺れ踊った。
 最後の一節が発せられると、瞬いた刹那、ラシュウを中心に強風が辺りを翔けた。
「――――はぁー……」
 止めていた息を、長く吐く。
 “よどみ”は今の風で吹き飛ばされた。浄化とはまた違った方法で行った、いわば強硬手段。
 その強引とまでいった行動をとらざるを得なかった状況に、再びラシュウは息を吐いた。


『――――……お主もやるようになった…………』


 どこからか声が聞こえた。低い、女の声だ。
 ラシュウはその声に嫌悪を表した。
「……風神」
 その声に答えるかのように、ふわりと大きな鳥が姿を現した。
 神秘的なエメラルドの瞳は鋭く、翡翠(ひすい)色の体と大きな翼が、神々しい燐光を輝かせている。額には、紅い玉が宝石のようにきらめいていた。
 細長い尾が、ぴしりと揺れた。
「風神、何の用だ?」
「神にむかってそのような言動でいいのか?」
 見下したような風神の台詞に、しかしラシュウは仁王立ちになった。
「お前を敬う気は一切無い!」
 きっぱりと言い放った。
「くくくっ……そう言うと思とったぞ」
 風神は苦笑を浮かべながら、ラシュウを見やる。彼は素知らぬ顔で鼻を鳴らした。
 そんな彼の態度に風神は、やはり苦笑を浮かべた。
「せっかく我が来てやったというのに……」
「で、何の用だ?」
 硬い声音で問いかけるラシュウに、彼女はただ笑うだけ。
「お主も分かっておるだろう……?」
 突如、突風が巻き起こった。いきなりのことに腕で目を隠し、風をやり過ごす。
 一瞬にして風は止んだ。腕をどけると、いつの間にか鳥の姿だった風神が人の姿になっていた。
 瞳は鳥のときと同じエメラルド。髪はゆるいくせのある翡翠色の長髪。胸元には真紅に輝く宝石がきらめき、唇には薄い紅をさしている。
 ひらりと服を揺らして、彼女は微笑んだ。
「やはり、こちらの姿のほうが我は好きだ」
「そんなことはどうでもいい。何の用があるのか聞いている」
 ラシュウの素っ気ない態度に、風神はやれやれと肩をすくめる。少しぐらい冗談に付き合え、と彼女が思っていたことをラシュウは知る由も無かった。
「……気付いているか? この風の“よどみ”」
 ラシュウは無言で頷いた。
 それを見て、風神は話を続ける。
「誰の仕業か分からぬが、そやつらは我らに敵意があるのだろうな」
 風をよどませるなんて、並大抵のことではできやしない。風の民でさえも、よどませることは難しい。
 それをやってのけた人物がいる。今はまだ表に出てこない、裏の人物。
「そうだろうな……そうでなきゃ、こんなことしない」
 ラシュウは腕を組み、空中で胡座をかく。風神は彼を見つつ、彼方を見やった。
「やはり……あいつらの…………」
 囁きにも似た言葉が落とされる。
 それはどこか悲しみを帯びていて、風神は視線を彼に戻した。
 ――痛みを堪えているような、そんな表情をしているラシュウ。彼自身それを自覚はしていないだろう。
 彼はどこか変なところで意地っ張りだ。風神は、内心ため息を吐いた。
「あぁ。たぶんお前の考えているとおりだ。……こやつには、まだ言わぬほうがいいだろう……」
 風神が目線だけをミーシャに向ける。ラシュウもその目線を追って、ミーシャを見た。

 未だ何も知らない少女。
 純粋で、無垢な少女には……今はまだこれは重すぎるかもしれない。




「……さて、ここの風も清めんとな。お主も手伝え」
「なぜ俺が?」
「口答えは赦さん。ほれほれ、さっさとしないか」

 ラシュウは、風神に気づかれないようにそっとため息を吐いた。

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<初稿:04/03/??/改稿:08/05/27>