「はぁー……」
ミーシャは嘆息を吐いた。
彼女がいるのはなだらかな丘陵地。何匹もの羊たちがのんびりと草をはんでいる。ひときわ大きい羊がこちらに向いたが、すぐにそっぽを向いた。
ここは、ラスクと一緒にいた場所とはちょっと違う緑の丘陵地。
どこをどう走ってきたのかは分からないが、走っていたらいつの間にかここにたどり着いた。
「やっぱり……ダメなのかなぁ……」
ミーシャは仰向けになって倒れる。そして空を見上げた。
走っている最中、幾度も思い止まろうと考えはした。考えただけで、行動に移すことはできなかったが。
結局、何もかもを投げ出しての場所に来てしまった。
投げ出してしまったフルート。
置いてきてしまったラスク。
どうしているのだろう、という疑問が浮かんでは消えていき、それがただ繰り返される。
戻ろうと思えば、戻れなくはないのだ。ただ、その戻るための勇気がない。
「…………」
あれだけ必死に向かい合おうとしたフルートも……結局は、放り出してしまった。
『里でもそうだったろう? 楽器を買ったのはいいが、吹けずにそのまま』
あの日のラシュウの言葉が脳裏をよぎる。
そうだ、確かにそうだった。里でも同じことをしていた。
楽器が欲しくて、いざその楽器を手に入れた後……ろくに使わぬまま放置した。ラシュウの言葉で思い出した苦い記憶。
頑張ろうと思った。見返してやろうとも思った。
元来負けず嫌いな性格も持ち合わせていたミーシャは、ラシュウの言葉によく突っかかり、喧嘩は数知れず。
それでも直ぐに仲は元通りに戻る。しかし今回のことは、どうなるか自分にも分からない。
ミーシャは眉を寄せ、きつく目を瞑る。
――どうせ……どうせ、できやしないんだ……。自分には、絶対に…………。
ぐるぐると渦巻く感情がまとまらない。どうすればいいのかも分からない。
疑問は浮かんでも解決策は浮かばない。
情けなくなって、目頭の奥が熱くなった。
「――――まったく、貴様は……」
「!?」
ミーシャはがばっと起き上がった。
急いで辺りを見渡して、さっき聞こえた声の主を探す。
「今の……」
――……今の声は、ラシュウの声だった…………。
しかし、辺りを見渡しても誰もいない。もしかして幻聴だったのだろうかと決めつけようとして、はっとした。
――……いつもと同じだ。いつも、私は途中で諦めている。
こんなことじゃいけない。諦めてはいけない。
途中で諦めてしまっては、せっかく里を出たのに……一人ではなにもできないではないか。
里を出ることに決めたのは、世界の見聞を広めるためという理由だった。
ミーシャが暮らしていた島は世界の数ある大陸とは離れていて、情報が入ってくることはあまりない。
ある年齢になるまで、大人たちからいろいろと学ぶことはあるのだが、それでも自分の目で見、耳で聞き、ちゃんと感じなければ興味は溢れるばかりで。
それを分かってか里の者は誰も反対する者はいなく、ミーシャは旅に出たのだ。
勿論、風の精霊であるラシュウを連れて……――――
「そうだよ……だって、ラスクだって言ってたじゃないか」
駄目だって思っていたら出来ません。自分からできるって思わないと……ラスクの言葉が脳内で反復する。
彼に頼ってばかりではいけない。けれど自分ひとりでできるわけでもない。
一人ではできないこともある。一人でできないのなら……誰かに手を貸してもらえばいいではないか。
大丈夫、とこの場にはいない彼の言葉が聞こえる。
――……一人じゃなくとも、誰かと一緒ならば……できる!
「……うん!」
ミーシャは、胸に秘めた思いを抱えながら、ラスクのいる丘に向かって走り出した。
どうやってここまで来たのか覚えていない。さらにラスクのいる丘の道のりも、ここからではわからない。
けれど、たどり着ける気がした。
風が、ミーシャを励ますように優しく頬を撫でていった。
「……はぁ」
走り去っていた少女を空の上から見下ろしつつ、ラシュウはそっと息を吐いた。
「まったく、あいつは単純なやつだよ……」
呆れながらも、その声音にはちょっとだけ嬉しさも混ざっていた。
己が彼女に召喚されて以来、いつも傍にいた少女。
彼女は、里ではいつも諦めていた。
強気で負けん気で、一つに興味を持つとただひたすらに追いかけていく。
ただ持続することができなかった。一つのことに集中することが苦手だった。
いつもそのことで口喧嘩をしていた。大抵勝つのはラシュウであったが……彼女は、放り投げるだけで対抗してこなかった。
それが、たまらなく悔しくも思えた。
彼女は、努力すれば力をつけることができる。そうラシュウは思った。
しかし今までの彼女はそういったものに無縁だった。風の民としての力はともかく、他のものに関してはほぼない。
里で楽器に手を伸ばし、すぐに諦めた時は怒鳴りつけたものだ。懐かしい記憶が脳内をちらつく。
今回、また楽器を手にした時は、また同じことを繰り返すのだと思った。だから怒鳴った。
――――本当にできるのか? 疑問が浮かんだ。
何日か前から、ミーシャは朝から宿を出てどこかに行っているようだった。
それを疑問に思わないわけでもなく、かといって興味があるわけでもなく。
ラシュウは暫く悩んだ後に、彼女に気付かれないように後を追いかけた。何処へ向かうのか定かではなかったが、すぐにその場所は見えてきた。
海が見える緑の丘。彼女はそこを目指していたようで、そこにたどり着くとすぐに座り込んだ。
これから一体何をするのだろうと疑問に思ったのだが――それはすぐに判明した。
同時に、驚愕した。彼女が楽器――フルートを取り出したからだ。
諦めたとばかり思っていた。それなのに彼女は……こうして、諦めないでいた。
湧き上がってくる高揚感に、思わず頬の筋肉が緩んだ。
「なんだ……」
やろうとすれば、できるじゃないか。
長居は無用だ、とこの場にいるのが悟られないようすぐに宿に戻ったものの、暫くの間は頬が緩んで仕方がなかった。
彼女が宿に帰ってきたとき、どう対応すればいいか悩んだものの、未だに怒っているのだろう彼女から話しかけてくることはなかった。万々歳だ。
そして今日はどうしているのだろう……そう思ったラシュウはミーシャがいるであろうあの丘へ向かった。
そこで見たのが、わき目も振らずに走っていく彼女の姿。いきなりのことに驚いたものの、慌てて追いかけた。
あまり離れてはいない場所で、彼女が仰向けになっているのを見つけた。その表情は哀しげで、瞳はどこか遠くを見ていた。
――――……やっぱり、か。ラシュウは心の中でため息を吐く。
早々とあの性格が直るわけがないのだ。半ば感心していた自分が馬鹿だったか……なんて、悲観するのも早いだろうか?
ちょっとしたきっかけがあれば、あの少女はすぐに復活する。里から今まで付き合ってきたのだ、彼女の性格がどんなものだかは理解しているつもりだ。
声を届けた。ただそれだけのことなのに、彼女はすぐに復活した。
くるくると変わる彼女の表情は見ていて飽きない。
「本当に、あいつって奴は……」
くつくつと喉の奥で笑うと、ラシュウは一瞬にして表情を一変させた。
「――さてと、さっきの風は……」
くるりと翻すと、遠くの彼方を凝視した。
先ほど、一陣の風が吹きぬけた。とても異様な雰囲気を漂わせていたそれに、体の心が凍るような悪寒を感じた。
「……一体、何なんだ……」
ラシュウは誰に言うでもなく、一人呟いた。