一話 笛の音響く風の音 3


 ラシュウとの約束――というより、ミーシャが無理矢理した約束まであと五日。

 午前中からあのラスクと出会った場所に来ていたミーシャは、早速フルートを組み立てて練習を始めた。
 最初は音を出すだけだから簡単だ、と思っていたのだが……やってみて実感した。できない。それこそ音を出すところから。
 何これ! 何これ! 未知の生物と出会ってしまったような思いになり、思わず投げ出してしまいそうになる。
 しかし、そこはラスクに教えてもらえると考えて、何とか投げ出さないでいた。

 お昼には宿の食堂で作ってもらったサンドウィッチを食べ、暫し休憩。
 サンドウィッチは野菜とたまごを挟んだシンプルなものだったが、とても美味しかった。一緒に持たされた水筒の中身はスープで、薄味のそれはサンドウィッチとよく合った。
 あまり多くなかった量のそれはすぐに無くなり、後片付けをしつつ再びフルートに手をつけた。
 午前中よりは出るようになった音。あまりにも嬉しかったので心の中でガッツポーズをした。

 音出しの練習を続けていると、ひょっこりとラスクが現れた。
 彼と会う約束はしたものの、時間は決めていなかったので早くに来ていたのだが……本当に早く来すぎた。
 午前中からいたのだと話すと、彼は目を丸くして謝ってきた。まさかそんなに早く来るとは思ってもいなかったのだろう。
「あ、そんな謝らないで」
 慌ててそう言うものの、ラスクは納得していないらしく顔をしかめた。
 そもそも、早くからここに来ていたのには別な理由があるのだ。
 ――言わずもがな、ラシュウだ。昨日から喧嘩したっきりあまり言葉を交わしていない。挨拶や一言二言程度は口をきくが、その後の沈黙が耐えられずに半ば飛び出すように部屋を後にしたのだ。
 朝からそんな気疲れをしつつ、ここに早めに来たのはもはや休むためかもしれない。内心そう思った。

 掻い摘んで説明をすると――ラシュウが精霊(エルフ)ということは言っていない。説明するのが面倒だからだ――ラスクは苦笑を浮かべた。
 そして言った。
「なら、見返してやりましょう」
 その笑顔はどことなくサディスティックな雰囲気を放っていたのは……気のせいと言うことにしておこう。


 そして今、ラスクによるフルートの授業は進んでいた。
「いいかい? ここはこう……あっ、違う違う。こうだって」
「ふむむぅ……」
 ミーシャは眉を寄せる。
 ――……難しい。難しすぎる。こんなの絶対に出来ないよ。
 再び湧き上がってきた諦めに、溜息が漏れそうになる。
「難しいって思っては駄目ですよ」
 突拍子もなく言った彼の台詞に、びくりと肩が震えた。
「はうっ! お、思ってないです!」
 図星を突かれて、顔が赤くなった。思わず反論の声を上げてしまうが、微笑を浮かべる彼にはお見通しで。
「嘘はつかない。さて、ここだけど……」
 てきぱきと教えてくれるラスクを横目に見ながら、ミーシャはそっと心の中で息を吐いた。
 ――――なんでもわかっちゃうんだなぁ……ラスクって。優しくて、気配りができて、羨ましい。
 内心そう思いながら、フルートの使い方を教わった。

「五日間でフルートを使いこなせるようになるのは無理なことなんだよ。時間をかけて、楽器と仲良くなる……そうしないと、綺麗な音が出ないから」
 そう言うと、ラスクは目を瞑って己のフルート――アスリを口元まで持っていく。
 そして、歌口に息を吹きかけた。

 ――……フルートの自然の旋律が、緑の丘を、澄みわたる海を、風のように越えていく。
 儚いような繊細な旋律、軽やかで涼やかな旋律…………流れる音色に、ミーシャは一瞬にして心を奪われていた。
 ふわりと風が凪ぎ、フルートの旋律が木霊のように響いて、消えた。
 未だ耳に残る音は、とてもじゃないが真似できない。
 歌口からフルートを放して、ラスクは微笑した。
「……こんな感じですね」
「す、すごいです!」
 ミーシャは大きな瞳をさらに大きくして、ぱちぱちと拍手した。
 先ほどまで感じていた邪念が、一気に消え失せてしまった。彼のフルートの音色を聴いて、胸を覆っていた靄が吹き飛ばされたような、そんな感じがした。
「……私も、やればできるかなぁ?」
 ミーシャの一言に、今度はラスクが目を丸くさせた。
 それを見たミーシャは、もしかして自分ではできないのかと思い、肩を落とす。
「……やっぱり、無理なんですか……?」
 改めて言葉にすると、少し悲しい気持ちになる。できる、できると思っていたのは……単なる気分だけだったのだ。
「……ふふっ」
 落ち込んでいると、場にそぐわない苦笑が耳に届いた。
「どうしたんです……?」
 問いかけると、彼は口を手で覆って笑った。
「な、何がおかしいんですか!?」
 訳が分からなくて、思わず口調を荒げて問いかけた。しかし彼は気にした風もなく、咳払いして笑みを止めた。
「いや。ミーシャさんもそう思うようになって……嬉しいなと思っただけですよ」
 にこやかに笑って、ラスクはミーシャを見た。
 ミーシャは彼の台詞に呆然としていたが、ラスクの視線に気づき、りんごのように頬を赤く染めた。こ、この人はいきなり何を言い出すんだ!
「そ、そう思うっ?」
 上擦ってしまった声は、この際仕方が無い。
 疑問に思ったことを口に出すと、彼はうんと頷いた。
「さっき、『私も、やればできるかなぁ?』って聞いてきたでしょう? つまり、自分に自信がついてきたという証拠です」
 ミーシャはこれ以上ないくらいに頬を赤く染めた。
 ――いつの間にそんなことを言ったんだろう。全く気付かなかった……。
「大丈夫ですよ。ちゃんと出来るようになりますよ」
 ミーシャは、そのラスクの微笑みが肯定を指しているように思えた。





 ※





 ――――ラシュウとの約束まであと四日。

「あうぅ……」
 鴇色の長髪を風になびかせて、ミーシャは緑の丘に座り果てしなく広がる海を凝視する。
「はぁ……」
 片手で頬杖をつく。ぼうっとした瞳は、ただ青い海だけを映していた。

 ひたすらに練習を続けているのだが、未だに見に結ぶような結果は現れていない。
 まあ、練習してから日数も経っていないのだから、ここで良い結果が出てしまったらある意味天才だと思うのだが……時間は限られている。
 その限られた中で必死に練習して、何とか吹けるところまでいきたいのだが……実際そんな甘くはない。
 吹けるところまで、と決めていても吹けなくては意味がないのだ。
 三度ため息を吐く。
「――ほらほら。ため息を吐かない」
「うぇ!?」
 突然聞き慣れた声が背後から聞こえてきた。
 そう思ったのも束の間、あまりにも驚きすぎてミーシャは奇声を上げながら丘を転げ落ちた。
 それはまさに、ミーシャがラスクと出会った時のように、ごろごろと転がっていく。
 ずてんと腰から地面に落ちた。
「……大丈夫ですかっ?」
 慌てた声に顔を上げると、ラスクが酷く焦ったような表情で手を差し伸べてきた。その手を掴むと引っ張り上げられて、少し上にある視線に気付くと、顔に熱が集まった。
「は、はい……。大丈夫です……」
 繋がれた手を離して、ぱたぱたと草を払う。本当に出会った時と同じみたいだ。
 どうしようもなく恥ずかしくなって、さらに顔に熱が集まるのを感じる。
 一人慌てているミーシャとは変わって、ラスクはただ微笑を浮かべた。
「さ、始めましょうか」
 そう言って、ラスクは再び手を差し伸べた。ミーシャはぎこちなくその手をとった。




 再び始まったフルートの練習も、しかしミーシャが投げやりになってきているためあまり進んでいなかった。
「むずかしいよ〜……」
 ミーシャの嘆息がその場に落ちる。
「だからですね、ここはこうですよ」
 優しく語りかけるラスクの言葉も、今のミーシャからすれば鬱陶しいもので。
 苛立ちが心の中に重くのしかかる。ふつふつと浮かび上がってきた感情を抑えきれない。
「――――もぉ……いやっ!!」
 抑えきれなくなったものが、表面に現れてしまった。
 ミーシャは手に持っていたフルートを投げ出して走り出した。
「あっ! ミーシャさん!!」
 ラスクは慌てて彼女の後を追いかけようとしたが、戸惑ったようにすぐ足を止めた。
 そしてその場に転がっているフルートを優しく持ち上げる。真新しいフルートには傷一つついていなかったが、ミーシャが投げたとき地面に石があったのか、表面に少しへこみがついていた。
「はぁ……」
 今度はラスクの嘆息がその場を包み込んだ。
 自分のフルート――アスリを三つに分解して専用の木箱にしまう。そしてその木箱は、まとめてあるミーシャと自分の荷物の傍に置いて、彼女のフルートを抱えた。
 今日の練習はこれで終わりかもしれないが、まだ日数はある。諦めるのは早い。
 練習を繰り返していけば、培ってきた努力は結果となる。
 彼女は、諦めが早い。諦めずに頑張れば…………おのずと結果は出る。
 なんとか彼女を説得できないものか……そう思ったラスクは、ふと目を細めた。
「……あれ……?」
 ラスクは何かに気づいたかのように、空を見上げ、そして風を感じた。






 ――風が……変わった……?


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<初稿:04/02/??/改稿:08/05/27>