ミーシャが自己嫌悪に陥っている時、どこからか微かに音が聞こえてきた。
滑らかで繊細なその音色は、荒んでいた心を穏やかにさせた。
「……なんの音だろう?」
美しく、とても綺麗な音。その音に導かれるまま歩き出すミーシャ。
道をまっすぐ進み、家の角を曲がる。また角を曲がって、まっすぐな道を歩く。歩き続けて、とても広い場所に出た。
そこは、緑の映えた草原のような場所だった。
「あれ……? こんなところ……あったっけ?」
しかし、音がするのはこの先。
緑の丘が先の風景をさえぎっていて、この先がどうなっているのかは分からない。
「まぁ、いいか」
とことこと緑の丘を駆け上がった。一番高いところまで駆け上がり、辺りを見渡した。
ちょうどミーシャの立っているところは丘になっていて、その先には緑の平地が広がる。平地の先は青い海原が彼方まで続いていた。
久しぶりに見た青い景色に、心が跳ねた。
「海だー!」
叫んで足を踏み出した瞬間、彼女の足は地面を踏みしめていなかった。
あ、と思ったのも束の間、彼女は足を滑らせて緑の丘を転げ落ちていった。
「いったた……っ」
丘を転げ落ちていったが、低かったおかげか大きな傷は見られなかった。
しかし丘の上から転げ落ちたため、髪や服には細かな草がついていた。ぱたぱたと手で草を払っていると、目の前に影が落ちた。
「――……大丈夫かい?」
聞き慣れぬ声にミーシャは顔を上げる。
そこには少年が立っていた。空の色と似ている青髪。瞳は海と似た碧眼。
心配そうに首を傾げている彼を見上げ、はっと我に返った。
「は、はい。大丈夫です!」
ははは、と苦笑しながら髪や服についた草を手で払う。――あれ、さっきも同じことをしたような……。
恥ずかしくなって顔を下に向けていると、少年がどこかおかしそうに笑った声が耳に届いた。
「よくここを見つけられましたね」
その言葉にミーシャは顔を上げる。彼は穏やかに笑みを浮かべていた。何がおかしかったのだろう……不思議に思うがいまいちよく分からない。
未だにニコニコと笑う彼をずっと見ていられるはずもなく、すっと視線を下に向けた。
そこで気付いた。彼の手は銀の笛が握られていた。
「あっ! それ……」
ミーシャは少年の持っている笛を指差した。
それは、金属製の管に鍵装置が施されている。ミーシャの持っているフルートと同じ形をしていたが、細かな装飾がされていて違うもののように見えた。
「これ? アスリがどうかした?」
「アスリ?」
不思議な響きの言葉に、小首を傾げる。
「そう。こいつの名前」
少年はフルートを指差した。名前?
「フルートじゃないの?」
「うん、フルートだよ。これは僕専用に改良した特別なフルート」 専用という言葉に、ミーシャは興味を持って彼の持つフルート――アスリを見つめた。
全体が銀色を帯びているが、どこか金色も混ざっているような不思議な色をしている笛。指で押さえる部分――後で彼に聞いたことなのだが、それはトーンホールというらしい――を中心にして周りに広がっていく模様は繊細で、吹き込み口の近くに花の装飾がされていた。
「……君も、フルートを持っているんだね」
彼の言葉にはっとして辺りを見渡す。いつの間にかショルダーに入れていたフルートが転がっていた。
丘から転げ落ちたときに、一緒に落ちたのだろうか。この楽器は全体が長いために三分割して保管するため、現在地面に転がったフルートはその三分割されたまま転がっていた。
慌てて近くに落ちていた二つを拾い上げて、もう一つを拾い上げようと動いた瞬間、目の前に最後の一つが差し出された。
「そういえば、自己紹介がまだだったよね。僕の名前はラスク。君は?」
「私はミーシャ」
それを受け取ってショルダーの中に入れてあった木箱にその三つをしまう。
少年――ラスクはそれを見届けると、愛用のフルートであるアスリを一瞥し、そしてミーシャを見た。
「折角だしさ、ミーシャさん一緒に吹いてみる?」
「えっ!? む、無理だよ!!」
ミーシャは目を真ん丸くして、手をぶんぶんと振った。ラシュウとこのフルートが原因で喧嘩したからか、少し弱気になってしまった。
それを疑問に思ったのかラスクは首を傾げて問いかける。
「どうして?」
「だって……私、吹けないもん……」
しまいこんだフルートの箱を取り出して、そっと息を吐いた。哀れむような瞳で、自分の手の中にあるものを見つめる。
「吹けない?」
そう、吹けない……吹けないのだ。
情けなくなって、ミーシャは八の字に眉を歪ませながら苦笑した。
「うん。私は、なにをやってもだめなんだもん……」
駄目なのだ。里にいたころもそうだった。何かしら一つのことに取り組もうとしても長続きせず、できないと分かるとすぐに諦めた。
手の中にある箱を強く握り締めた。悔しいと思う反面、どうにもならないという諦めのようなものを感じた。
「……大丈夫ですよ」
はっとして我に返る。ふわりと暖かいものが自分の手を包んでいることに気付いて、驚きを隠せないまま視線を上に向けた。
自分の両手を包む、彼の暖かい両手。ふわりと笑みを浮かべた顔。
ラスクはさらに口を開く。
「練習しましょう。駄目だって思っていたら出来ません。自分からできるって思わないと」
穏やかに、そして和ませるような彼の声に、ミーシャは少しの間呆然としていた。
しかしすぐに我に返ると目を伏せる。――できるのだろうか、自分に。
「でも……」
「大丈夫。僕が教えてあげますよ」
にこり、とラスクは微笑んだ。ミーシャは、少しだけ安堵した。
「……はい」
「それじゃぁ、明日から練習ね」
その言葉を最後に二人は別れた。赤かった空は、徐々に暗い色に変わりつつあった。
しかし、ミーシャはあることを忘れていたのだが、ここで気付くことはなかった。
※
「ふざけんな!」
「ふざけてなんかないっ!」
ミーシャとラシュウが宿泊している宿の部屋で、うるさい罵声が響き渡る。
ラスクと別れた後、ミーシャは大急ぎで宿を探し回った。
いくつも宿があるわけではないので一度は野宿しようか考えたが、それだけは嫌なので今まで探した中で値段が一番安い宿へ泊まることにした。
チェックインして部屋でくつろいでいると、ラシュウが窓の外から部屋に入室してきた。なにやら疲れたような顔をしていたが、特に気にせず夕食の為に食堂へ向かっている最中、ふと今日あったことを話したのだ。
そしたら喧嘩勃発。夕食は食堂という公共の場なので言い争いはしなかったが、早々に部屋に戻ってきてから再び勃発した。
そして、二人が言い争っている原因の種は……ラシュウとの約束のことである。
「貴様は、明日行くと言ったのだ! 約束は守れ!!」
「だから、別にいいでしょう!! 長く居座ることじゃないんだから!」
部屋中に怒鳴り声が響き渡る。
そう、約束というのは明日この町を出ること。まだラスクと出会う前にラシュウと話していたもの。
それを、ミーシャが「この町に滞在する」と言ったので、ラシュウが激怒してしまったのだ。こういう時、ラシュウはきっぱりと物事を考える
「それじゃあ聞くが、その五日はなにする気だ?」
ラシュウは空中で胡座をかき、両の腕を組む。風もないのに、髪が小刻みに揺れた。
「べ、別に……なんでもいいでしょ」
ミーシャはそっぽを向く。これだけは言えない。言ったら絶対に反対することが目に見えているから。
「と、ともかく! 五日間はこの町に滞在するからね!!」