自分の部屋に戻ると、まず鞄に荷物を入れた。
ベッドの上に無造作に置かれている服、鏡やくし、その他いろいろなものを手にとっては入れる。
「それで、今日はどうするんだ?」
「今日? うーん……できれが次の町に行きたいのよね」
ある程度荷物を鞄の中に入れると、ミーシャは窓際にある机の上の杖を手に取った。
鮮やかな緑色が、日の光に当たって少し輝いているように見える。
――否、輝いているように見えるのではなく、実際に少し輝いているのだ。
この杖は、風の民の持つ風の杖だ。
風の民だけが用いる、風を司る杖。<風技>という風の民独特の技を使うときにも必要だし、風を操るときに必要だ。
必要、とはいっても杖はただの補助にすぎない。
力を使うのには体に負担が掛かる。その負担を減らす為に使うのが、風の杖だ。
だから風の民は、一人ひとり杖を持ち歩く。
「次の町……今から行くのか?」
「ううん。行きたいけど、もうちょっとこの町を見て回りたいな」
「そうか」
呟いて、ラシュウは窓を開けた。ふわりと風が室内へと吹き込んでくる。
「どこに行くの?」
「散歩だ」
窓枠に足をかけて、飛んだ。
慌てて窓の外に顔を出すと、ラシュウがくるりと振り返った。
「空中散歩?」
「そう。誰かさんのせいで結構ストレス溜まってるんだよなー」
「んなっ!」
ミーシャが頬を膨らませると、ラシュウはあははと笑い、窓の外へ飛び出した。
彼はそのまま風と同化していく。やがて姿が見えなくなった。
一人部屋に残されたミーシャは少しの間ぼーっとしていたが、風の杖と鞄を机の上に置くとベッドの方まで歩いていった。
そして、ぽすんとベッドに倒れこむ。
ふわふわした感触と、微かに漂う花の香りが眠気を誘った。
「あぁー……気持ちいい……」
瞳を閉じると、そして意識が遠のいていく。
なんだかベッドの上にいっぱなさしだなー……。
「んー……」
再び、ミーシャは眠りについた。
※
青い空が広がる。積み雲がなだらかに流れて、ぴるるぅと鳴きながら鳥の群れも飛ぶ。
その中の一羽、緑色の鳥がいきなり群れを離れて飛んでいく。
高く舞い上がると、空を大きく旋回した。下には、煉瓦の町並みが広がる。
ふわり、と羽ばたいてその場に留まると眼前を睨んだ。
「……つくづく、つきまとうのが好きなようだな」
鳥が喋った。
だが、その返事は返ってこない。
「ばれているんだから、姿を現せっ!」
少しきつめに言った小鳥の言葉に、今度は返事があった。
『――存在を忘れることは出来ない。それは枷となり、生きていくうえで、己を束縛するものとなる』
「!?」
鳥の目の前で、風が集まり、薄緑色の球体ができた。
さらにその球体はぐにょぐにょと変形していき、小鳥の形を成す。
『姿を変えようが、自分を変えることは出来ない』
再び変化があった。
小鳥がぐにょぐにょと変形して、次は魚になる。
『忘れるな。時は確実に近づいていることを……』
その言葉を最後に魚はぐにょぐにょと変形し最初の球体になると、そのまま霧散していった。
集まっていた何かがが、急激に散っていく。
唐突な始まりと終わりに、驚きを隠せない鳥は瞳に動揺の色を浮かべた。
「……今のは……?」
緑色の鳥が瞼を閉じて、すると、姿が変化した。
「まさか……っ」
鳥の姿だったラシュウは目を見開いたまま固まった。
心の奥底にあるものが、不意に脈動した。
――まさか、そんなことあるはずがない。
『――――そこの精霊』
びくっ、と精霊の肩が揺れた。ゆっくりと振り返るとその目線の先にいる人物を見て、ほっと息をなでおろした。
「風神か……」
鳥型をした風神が、何やら怪訝そうに首を傾げた。
「どうしたラシュウ? 顔が青ざめておるぞ」
「……別に、なんでもない」
ラシュウの素っ気ない返答に、風神の柳眉が動く。
「お主のその様子。なんでもないと言い切れるのか?」
「……」
ラシュウは口を閉ざす。動きのない彼に、風神は鳥型だった姿を人型に変えた。
威圧的な風神の視線がラシュウを貫く。耐え切れずに、ラシュウは視線を逸らして俯いた。
暫しの間、沈黙がその場を包み込む。
「……風神よ、質問する」
先に口を開いたのは、ラシュウだった。
「なんだ? 我に答えられる範囲ならば応じよう」
白い剥きだしの両腕を組み、顎をしゃくる。
「お前の下僕の<風の使者>は……姿は、鳥だよな……?」
「は? 何をいまさら……ラシュウ、お前が一番よく知っておろうが。風の民の神であり、風の民の象徴は鳥。我だって、年に一度行う風祭には鳥の姿で現れておろうが」
風祭、というのは、風の民が年に一度行う風を鎮める祭のことだ。
毎年、風が荒れるといわれている『風慌の日』に行う。荒れた風を鎮め、良き風が吹くように、と。
脈絡も無い唐突な質問に、今度こそ風神の雰囲気が鋭くなった。
「……何があった」
それでもラシュウは首を横に振る。
「何もない」
即答したラシュウは、しかし苦々しい思いを捨てきることは出来なかった。
心の痛みに応じて顔が歪む。
その様を見ている風神は、いぶかしげな面持ちになった。
だが、あえて問うことはしなかった。こうなった彼は何も語らないと、知っているからだ。
変なところで頑固だ、と風神は思う。もう少し周りを頼ることをした方がいいと言いたいが……素直に聞くはずが無い。
心の中でため息を吐くと、改めてラシュウに向き直る。
「我の力が必要になったら呼べ。どこまで手助けが出来るか分からんが、お前の頼みとあらば、全力を尽くそうぞ」
「……仮にも神が、精霊ごときの俺にそんなことを言ってもいいのか?」
ラシュウの言葉に、風神は大笑いした。
「あっはっは! それもそうかね」
口端をつり上げてにやりと笑う風神が、一瞬のうちに鳥の姿に変化した。翼を打ち鳴らし、大空を舞う。
「我は風に乗るとするよ」
「そう言っておきながら、実は俺たちの後をつけているんだろう」
「さてね。全ては気まぐれさ」
ラシュウの問いかけに、曖昧な答えを述べた風神は高く高く舞い上がった。
そして、上空を流れる幾つもの気流のうちの一つにその身を任せて流れていく。
ラシュウの瞳は、姿が見えなくなった風神の姿をずっと追っていた。
少しの間その場を動こうとしなかったラシュウは、不意に身を翻した。
ラシュウの視線の先には何も無い。
だが、微かに気配が残っている。
その気配を、自分は知っている。
――……それは随分と懐かしいものだった気がした。
「……近づいている、か…………」
あと、どれだけの時間が残されているのだろう。
その時、その真実を知ったとき、彼女はどう思うだろう。
さまざまな思考が脳を巡る。頭を振ってそれらを打ち消し、ラシュウは空中散歩の続きを再開した。