背中合わせの不安と疑惑 1

 長いようで短かった船旅も終わり、久々に大地を踏みしめたミーシャは、その場でぐーっと背筋を伸ばした。
「クリオス大陸とうちゃーく!」
 港には、ミーシャのように船から降りてきた人や、これから乗っていく人でごった返している。
 荷物を持ってそそくさとその場を後にしたミーシャは、傍でふわりと浮いているラシュウに問いかけた。
「これからどうする?」
「そうだな……コハに行くか」
「コハ?」
 なにぶん初めての土地で、右も左も分からない。
 疑問の視線を向けると、彼は少し考えてから口を開いた。
「この町の宿はもう満室だろうから、ここから一番近いコハの町まで足を伸ばせば、野宿にはならないだろ」
 彼の言葉に「あっ」と気付いた。
 確かに、先ほどからこの港町を歩いているが、この間までいたノスロスほど活気があるとはいえない。何だか閑散としていて、店も宿屋もあまり見かけない。
「ここは、いわば中継だからな。荷物の運搬が多いというか……だから、この船に乗るのは商人が多い」
 ちらり、とラシュウが視線を前方に向けたのでミーシャもそれに習う。
 二人の向けた視線の先には、大きな荷物を抱えた壮年の男性がいた。そして、辺りを見渡しても大半の人々はその男性と似たか寄ったりの格好をしている。
「だから、旅人は大抵隣町の方に行くんだ」
「……商人用の宿屋ってことか、なるほどー」
 ラシュウの説明を聞いている内に、町の外へと通ずる出入り口に到着した。
「あ」
「どうした?」
 肝心なことをすっかり忘れていた。
 くるりとラシュウに向き直ると、彼はきょとんとした表情を浮かべていた。
「……道、分かんない」
 エヘ、と可愛く言ってみたらデコピンされた。地味に痛い。
「この土地に来るのは初めてだから仕方ないか」
「え、何で私デコピンされたの? え、何で?」
 黙れ、と再びデコピンされてしまった。しかも同じ場所だから痛さが倍増だ。
「野宿はしたくないんだろ?」
 しかも、私の台詞完全無視だよ。
 けれど彼の言うことは正論で。
「……できれば」
「なら、少し大変だが近道を通る」
「近道?」
 鸚鵡返しに問いかければ、彼はそうだと答えた。
「あそこの森、見えるだろ?」
 ラシュウが指差した方へ視線を向ければ、鬱蒼とした森が見える。ここからそう遠くない場所だろうが……何故だか、それにしてはいろいろなものが大きすぎる気がする。
「あれはファルアの大森林って言って……まあ名前のとおりだ」
「あそこを通るの?」
「あそこを通れば近いんだ」
 そのかわり、獣道(という名の道無き道)だから大変だけどな。
 何だか楽しげに語るラシュウの声音に、ミーシャは少し違和感を覚えた。普段とは違う何かが含まれている気がして、自然と口を開いていた。
「ラシュウ」
「ん?」
 振り向いた深緑の瞳は、穏やかに凪いでいる。
「ここに来たこと、あるの?」
 その問いかけで、一瞬瞳が揺らいだのを見逃さなかった。
 ラシュウはミーシャから視線を外して前を見据える。何処か遠くを見てるようなそれに、何も言えなかった。
「…………一度だけ、な」
 ともすれば掠れて聞こえなかった声は、ミーシャの耳にちゃんと届いたけれど、彼にどんな反応をすればいいのかと戸惑ってしまい、その言葉に対する返事をすることはできなかった。

 ※

 港町を出た二人は道の途中まで馬車に乗せてもらい、後半は徒歩でファルアの大森林を目指した。遠いと思われていたその場所は思いの他近くで、大森林を前にしたミーシャは驚きのあまり立ち尽くしてしまった。
「……でか」
 その木は大きいというよりも巨大だった。ミーシャの身長の何十倍もある木の幹は、一体どれくらいの太さがあるのか分からない。
「呆れてないで行くぞ」
 呆気にとられているミーシャを置いて、ラシュウはさっさと進んで行ってしまった。
 ミーシャは慌てて彼を追いかけて大森林の内部に入った瞬間、むわりとした熱風が体全体を包み込んだ感覚に、顔をしかめた。
「あっつい」
 先の見通せない緑の魔窟。歩けないほどではないが木々の間隔は狭く、剥き出しになっている根っこに時々つまづいてしまいそうになる。
 上を見上げれば、大きくしだれる葉をも巻き込んで絡まる蔦が天を覆っていた。
「あーっ! 何でこんなに暑いの!」
「仕方ないだろ、近道なんだから。我慢しろ」
 やれやれ、とラシュウは肩をすくめる。 「って、あんたはなに休んでんのよー!!」
 憤慨するミーシャは、器用に自分の肩に座っているラシュウを睨みつけた。
 しかし、彼はそれを軽く受け流して「飛んでいるよりこっちの方が楽なんだ」と言った。
(いや、確かに座ってる方が楽だろうけどさ。私はどうなるのよ、私は!)
 そんなことを考えていたミーシャだが、悩むと段々頭が熱くなってきたような気がしたのでやめた。
 自分で思うのもなんだが、賢明な判断だったと思う。
「……」
 一人納得しているミーシャを横目で見ながら、ラシュウはそっと遠くに意識を飛ばした。
 ――――なぁに勝手にあたしの肩で休んでんだよ。
 心の中でよみがえった彼女の声が、響いて、消える。
 周りの音が雑音のように、その中で声はクリアに木霊した。
 時が、止まってしまった錯覚に陥る。
「――――……ウ……ラシュウってば!」
 唐突に、耳に世界の音が戻ってきた。
 覚醒したラシュウはミーシャの方へ顔を向けると、彼女は気遣わしげな表情を浮かべていた。
「どうしたの?」
 どうやら深く考え込んでしまっていたらしい。
 小首を傾げながら問いかけてくるミーシャに、ラシュウは首を横に振った。
「別に……」
 しかし、答える為の言葉が見つからなかった。
 何か弁解しようにも、言い訳をするわけでもなく、本当に言葉が見つからない。
 ただ、何も無いのだ。
 ミーシャから顔を背けると、ふわりと宙に飛び上がった。
「あれ、もういいの?」
 ――勝手に休んでたクセに、もういいのか?
「……同じことを言うんだな」
「え? 何か言った?」
「いや、何も」
 胸中に浮かんだ淡い思いを振り払い、ラシュウは目の前に広がる風景に、ため息を吐きそうになった。
 一度来たことがあるからといって、この光景はうんざりする。行けども行けども見えてくるのは木々のみで、まるで緑の迷路に迷い込んだかのようだ。
「むー、全然見えてこない」
 近道だからと選んだ道なのに、全くもって近道になっていない気がする。
「おい、こっちだ。そっちじゃない」
 離れた所から聞こえた声に、はっとして顔を向ける。
 いつの間にかミーシャから離れた場所で、ラシュウが宙を漂っていた。大急ぎでそちらに向かうと、彼は先頭をきって進み始めた。
「ま、まってーっ」
「……遅いぞのろま」
 彼の進むスピードは速いわけではないのだが、如何せん足場が悪いこの場所ではついていくのもやっとだ。
 徐々に引き離されていくのを焦ったミーシャが声をかけると、彼はふんと鼻で笑った。
「お前も〈風〉を使えばいいだろ?」
 〈風流〉を使えば、足場が悪くても無関係に先に進める。そんな意味合いで言った台詞に、ミーシャはぽかんとした後「そうか!」と表情を輝かせた。
(全く世話のかかる……)
 肩をすくめて再び先を行こうとしたラシュウは、しかし背後から感じた〈風〉の力に、顔色を変えて振り向いた。
 ミーシャが、背丈よりも少し長い杖の先端を前方に向けていた。
 鳥の形を成す杖の先は、光があまり差し込まないこの場所でも、不思議な輝きを放っていた。
 何かしらの〈風技〉を行おうとしているようだが、それはラシュウの考えていた〈風流〉ではないと直感した。
「お、おい!? 何をする気だ!」
「道を作るの!」
 ――――道を作っちまえば早いんじゃねぇ!
 ぎょっと目を丸くしているラシュウの前で、ミーシャは左の手を杖を持っている右の手の上に添えた。
 瞬間、風の波動が広がって、少女の髪を翻していく。
「我が声に応えし風よ! その力、我に貸し与えたまえ!」
 ミーシャの声に応えて、風が集まりだした。鳥の頭上に、目には見えない透明な風の球ができあがる。
 その球を中心に、力を持った風が渦巻いた。
 後はこの力を、解き放つだけだ。
「〈風波〉!」
 言霊を紡いだと同時に、風の塊が放たれた。思った以上の力に、その反動で体勢を崩したミーシャは尻餅をつく。
 いつもより荒々しくできあがった風は、威力を失うことなく木々を飲み込もうとする。
「……全く、ありえないな」
 放たれた風の進行方向に、ラシュウは立ちはだかった。次いで、迫りくる風の塊に手を向ける。
 後先考えない馬鹿なところもあいつそっくりだ。ここまでくると、呆れてものも言えない。
「ラシュウ!?」
 一方、風を放った張本人であるミーシャはぎょっとした。
 いくら彼が風の精霊といえど、〈風流〉を直撃すればひとたまりもない。
 慌てて彼を守る風を新たに織りなそうとしたが、間に合わない。
「〈風紋〉」
 風がぶつかる瞬間、彼の穏やかな声が響き渡った。
 前に向けた指先から、さざなみのような風の波紋が静かに広がっていく。
「……散れ」
 ラシュウの小さな声は、風の音に呑まれて誰の耳にも届くことはなく。
 ミーシャの放った〈風波〉とラシュウが展開した〈風紋〉が交錯した。
 波紋が塊を優しく包み込むと、その衝撃からか余波が吹き抜けていった。顔の前に腕を出してそれをやり過ごすし、二つの力は溶け合うようにして霧散した。
 それを見届けたラシュウはほっと安堵したのも束の間、表情を変えた。
「……一体、何をしようとしたんだっ」
 未だに尻餅をついた状態のミーシャに近づく。
「え、あ、だって……歩きにくいから、吹き飛ばしたら歩きやすくなるかなぁ…………なんて」
 あはは、と若干引き攣った笑いを浮かべる少女に、呆れを通り越して何も出てこない。
 いや、確かに〈風〉を使えとは言ったが……どんな発想をすれば『吹き飛ばす』なんて選択肢が出てくるんだよ。
「あのなぁ、こんな所でさっきみたいな力を使ったら、どうなるか分かってんのか?」
「……ん?」
 分かってないとばかりに、首を傾ける。
「木を倒して、運悪くこちら側に倒れてきたらどうする」
「……吹き飛ばす?」
「……………………はぁ」
(誰かこの馬鹿娘に良識という言葉を教えてやってくれ!)
 馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、まさかここまでとは思わなかったぞ。
「質問を変えてやる。ここはまかりなりにも大森林だ。ここに暮らす動物たちもいる。住処が荒らされたら、どうする?」
「…………」
 そこまで考えていなかったのだろう、表情が固まった。
「住処がなくなれば新たに住処を探さなくてはいけない。それまで自分を狙うものや危険と隣り合わせだ」
 言いたいこと、分かるな?
「……ごめんなさい」
「分かればいい。次からは気をつけろよ?」
 素直に謝ったミーシャの頭をぽんぽんと撫でて、手を差し出した。
「…………?」
 思いがけない彼の行動に、思わずその小さな手を見つめた。
「……あっ! こ、これは、別に……違うからな!!」
 何を思ったのか、ぼんっと顔を真っ赤にしたラシュウはうろたえて手を引っ込めた。
 どうやら無意識の内にやってしまった行動のようで、普段とは全く違う彼の態度に思わず笑みがこぼれる。
「は、早く行くぞっ!」
「はいはい、行きますよー」
 ぱたぱたと服の汚れを払いながら立ち上がると、先に行ってしまったラシュウの背を追いかけた。
 宙をふわふわと浮いている彼をぼんやりと見つつ、視界をよぎった白に、そういえばと以前から思っていた疑問を彼に問いかけてみた。
「ね、ラシュウ」
「なんだよ?」
 横に並んだミーシャに、訝しげな眼差しを送る。
「そのバンダナいつも大事にしてるよね? 誰にもらったの?」
 一瞬、少女の言った言葉が理解できなかった。
「ねえ、誰にもらったの? まさか恋人とか?」
 恋人発言に頭の中が真っ白になった。ビシリッ、と音を立てて硬直してしまったラシュウをよそに、ミーシャは至極満足そうな笑みを浮かべた。
「そっかそっか、恋人にもらったのかー」
 いいなぁ、なんて呟けば、我に返ったラシュウが顔をリンゴのように真っ赤に染め上げて体を震わせていた。
「っお、俺のものだっ。もらったもんじゃねぇ!」
「ね、その人って誰?」
「うるせえええぇぇぇっ!!」

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