――――遠い昔の記憶が、脳裏をかすめた。
『なあ、ラシュウ』
ふわりと、風に乗った甘い香りが鼻腔をくすぐった。
名前を呼ばれて振り向いてみれば、女の視線はすぐ上にあった。
見上げて、睨みつける。
『……なんだ』
あいつは、いつも笑っていた。嬉しい時は豪快に、悔しい時は……次の瞬間にはもう余裕のある笑みを浮かべていて、いつも強気な表情だ。
けれど、今日は何故だかしんみりしているように見えた、気がした。
『ラシュウは、ずっとあたしに従ってるのか?』
男勝りな口調は、もう聞き慣れたもので。
変な奴だなと思うのに、どこか、心が休まるような感じで……まるで陽だまりの中にいるようなまどろみの温かさを感じている。
だからか、彼女がそんな突拍子もない疑問を問いかけてきた時は、心底驚いてしまった。
『はぁ?』
『だから、あたしがお前を
そう、彼女が俺を喚んだから、俺はここにいて、お前に従っている。
召喚とはまた違う、喚び出す力。異なる世界に住まう風を司るものを、風の民がパートナーとして喚び出すことは少なくない。
しかしそれは一時的なもので、風の民が何らかの助力を請う時に喚び出す。それに応えたものがこちらの世界へとやってきて、役目が終われば元の世界へと還る。
(……俺みたいな奴は、珍しいだろうな……)
心の中で呟きつつ、ラシュウは彼女の問いかけに戸惑っていた。
いなくなってから。そんなこと、考えてもいなかった。
どうなるかなんて、元の自分の生まれた場所に戻るだけだ。
そう、戻るだけ……還る、だけなのに。
今は、ただこの安らぐ暖かな場所にいたいだなんて。
『……そりゃ、戻るしかないだろ』
どこに、とは言わなくても彼女はその意味を理解するだろう。
俺がそう言うと、彼女はくすりと笑った。
『あたしさ、一旦里に戻ろうかなって思ってるんだ』
突然、何の前触れもなく言った彼女に、思わず口が開いた形のまま固まってしまった。
しかし、すぐに我に返り言葉を返す。
『里に? お前、一生戻らないとか言ってなかったか?』
俺の台詞に、彼女は笑いながらも『そうだね』と答えたが。
『……でも』
小さく呟くように続けられた言葉に、俺は彼女を見入ってしまった。
強くあろうとしている姿は、今はとても弱々しく見えた。
『でも、さ……あの子を、一人にさせてるのは、かわいそうかなぁ……なんて』
彼女の口から漏れでた言葉に、そういえばと思い返す。
彼女には、まだ幼い娘がいた。
たった一人の、愛娘。彼女の髪と瞳の色を受け継いだその姿を最後に見たのは……いつのことだったか。もう記憶も曖昧になってきている。
『今から里に戻るのか?』
『それをどうしようか悩んでるんだよ』
うーん、と顎に手を添えて唸っている彼女を横目で見つつ、俺は心の中で溜息を吐く。
(――こう、なんで後先考えずに行動するんだ)
何でもかんでも、彼女は考えるより先に行動してしまう。少しは考えてから動き回ってほしいものなのだが、性に会わないらしい。
それで、たいていの場合は考えに行き詰まり、俺に聞いてくるんだ。
『な、ラシュウ。どうすればいいと思う?』
ほらやっぱりだ。読みが当たったラシュウは、内心ほくそ笑みながら、思うままの言葉を口に出す。
『お前がしたいようにすればいいさ』
投げやりにも聞こえてしまうような俺の台詞は、残念ながら真面目に言っている。
何かを押しつけるほど俺はえらいわけではない。どうしたらいい、なんて……結局は自分のことなのだから、自分で決めるしかない。
しかし、俺の言葉が意外だったのか彼女は大きく目を見開いてこちらを見ている。それこそ、穴が開いてしまうんじゃないかってぐらいに。
傍から見れば阿呆面にも見えなくはないが、本気で驚いているらしい彼女の表情に、こちらも驚きを隠せなかった。
『好きなように、か……』
『そう、好きなように、だ』
口端を吊り上げて笑うと、彼女は『そうか』と頷いて再び考え始めた。
……しきりに唸っている姿は、はっきり言って見ていて面白い。
そして、こうして傍にいられていることに酷く安心感を抱いているのは、きっとここが居心地が良いからなのだろう。
和やかな風が二人の間をすり抜けながら、ふと、彼女が急に口元を手で覆った。
『うっ……酔った……』
自業自得だ。下を向いてりゃ気分も悪くなるだろうが。
『阿呆だろお前』
船にはもう何回も乗っている。それなのに彼女は、波で上下に揺れる船の動きにやられて船酔いしてしまったのだ。風に当たると気分も変わるだろうというラシュウの提案に、甲板に出てきたのは先程のこと。
折角体調が良くなってきていたというのに……同じ過ちを繰り返した女を見て、ラシュウは溜息を吐きたくなった。
『馬鹿だな』
一言、ラシュウが呟くと女はむすっと眉を寄せた。
『馬鹿言うな。……ラシュウ』
『何だ頓馬』
さらに眉を寄せた。
『頓馬言うな。……頼む、〈癒しの風〉やってー』
『ハッ。自分でやれ』
吐き捨てるように言い放った。
多少言葉遣いが悪いのは仕方が無い。……これで諦めてくれるのなら嬉しいのだが、彼女の性格上、それは絶対にありえない。
そう思っていた矢先、額に巻くバンダナの先を、彼女が思いっきり引っ張ってきた。
(――く、首がっ!!)
『頼むよラシュウ〜。君だけが頼りなんだ〜っ!』
『嫌だ! っていうか引っ張るな! 首が折れる!!』
『たーのーむーよぉー』
さらに強く引っ張られて、首がおかしな方向へ曲がりそうになる。痛いとか、そんなこと言っている場合じゃない。
(これ以上引っ張られると首がもげる!)
じたばたと暴れてみるが、あまり意味が無かった。
『だからっ、バンダナを引っ張るな! ……破れるっ!!』
今にもビリッと破れてしまいそうな雰囲気のそれに、思わずそう叫んでみれば、彼女の引っ張る力が緩んだ。
あれ、と疑問に思い彼女の方へ視線を向けると、呆気にとられていた。
『……え、何。もしかして……このバンダナ、大事にしてくれてんの?』
彼女の台詞に、胸が跳ねた。
『え、まじ? やばい、嬉しいなぁー』
ガバッと思い切り頭を振って、彼女との距離をとる。
バクバクと跳ねる心臓が、妙に煩い。
『おまっ、ち、違う! 違うからな! 別に大事にしてるわけねぇだろ!』
図星を突かれて取り乱してしまったラシュウをよそに、けらけらと彼女は笑った。
――実はその笑顔が好きだったりするのだが、今のこの状況でそんな悠長なことを思っていられるわけもなく。
顔に熱が集まり始めて、顔を背けたくなった。
ニヤニヤとなにやら含みのある笑みを浮かべている彼女を横目で見ながら、ラシュウはバンダナの先に触れた。つけ始めたときよりも、少しくたびれてきた白い布地は擦り切れ始めていたが、まだまだつけられそうだ。
大事に扱っているからだろうか……なんて、心の片隅で思っていたら、何だか気恥ずかしくなってきた。
『あれ、前に破けてた部分が縫ってあるー』
何でかなぁ、とあきらかに答えが分かりきっている問いかけに、今にも沸騰しそうなほど熱くなった顔が、さらに熱くなった。
『っ! ……直し、たんだよっ』
これ以上の言い訳はできないと悟ったラシュウは、降参だとばかりに口を開く。
すると、彼女はぱぁっと笑顔を浮かべて……こともあろうに、抱きついてきた。
『やぱり大事にしてくれてるんだー! あたしは嬉しいぞっ!』
『ぐあっ! こら、抱きつくな!! 苦しい!』
抱きつく、というよりは捕まえた、という方が正しいか。
手足を振り回して逃れようとするが、悲しいかな人と精霊の体格差には勝てず、最終的にはされるがままになっていた。
ぐりぐりと頬を摺り寄せてくる彼女を押し退けながら、どうやってこの場を抜け出そうか黙考する。
『……ラシュウ』
不意に、彼女の手の力が緩んだ。
ラシュウは暴れるのをやめて、そっと彼女の顔を見上げる。どこか寂しげな表情を浮かべている女の瞳が、真っ直ぐ自分を見つめていた。
『…………なんだよ、いきなりかしこまった顔しやがって』
彼女は腕の力を緩めて、俺はその手の中から飛び出し、彼女の顔の脇の辺りで留まる。
隣にある温かさはいつもと変わらないはずなのに……何故か、何かが違うように思えた。
真っ直ぐ見つめる紺碧の瞳は、海のように澄んでいる。
『ラシュウさ、あたしが死んだとしても……あの子のこと、よろしくな』
その言葉は、今までした約束の中でも、一番思い約束だったと思う。
『これから先、何が起こるか分からない。……今も奴らは、動いている』
『……そうだな』
俺が肯定の意味を込めて頷けば、何かを確信したかのように哀しげな笑みを、彼女は浮かべていた。
「……」
昔の記憶に浸っていたラシュウは、そっと瞼を持ち上げた。
ミーシャは既に部屋に戻っていて、ラシュウはマストの上に座り込んでいた。
海風が、ぶわりと頬を撫で上げた。
「…………お前は」
ここに来るのを、知っていたのか?
心の中に残る彼女の残像に問いかけてみた。当たり前のことだが、返事はない。
ただ、笑っていた。
「お前の約束は、必ず守るよ」
低くそう呟いて、ラシュウはふわりと風にその身を任せて下に降りていった。