船に乗り込んで二日目。
昨日まで見えていたアルセウス島が完全に見えなくなった。明日にはクリオス大陸のネティルという港町に着く予定だ。
――……その予定なのだが。
「うぅ〜……きもちわるい……」
初めて船に乗り込んだミーシャは、あまり穏やかとはいえない波の揺れに酔ってしまっていた。
乗り込んだ時は好奇心が勝っていたからだろうか、特に何も感じることなく過ごしていたのだが、徐々に昂ぶっていた気持ちが落ち着いてくると、船の揺れを敏感に感じてしまい、三半規管がグルグルと回る感覚に、ダウンしたのだった。
今朝は何も食べていないはずなのに、何かが喉をせり上がってくるような錯覚に陥る。
「だ、だめだ……はきそう……」
「……はぁ」
ベッドの中で呻いているミーシャを見て、ラシュウは溜息を吐いた。
「酔い止めとか、きつけの薬は持ってきてないのか?」
とりあえず心配してくれているらしいラシュウの質問に、弱々しく首を横に振る。……あ、さらに酔いが回った気がする。
「もって、な……い……」
青ざめた顔、苦しげな吐息に、ラシュウはどうしたものかと頭に手を当てた。
(……まあ、無理もないか)
普段、移動するときに使うといえば馬車が基本だ。もしくは徒歩。風の民は風を操り〈風流〉を使うことも多い。
こうして船を使うのは、大陸を跨ぐ時だけだ。
そして、ここに来るまでにミーシャが船に乗ったことは一度も無かった。慣れていないものに乗って、酔ってしまうのも……仕方が無いことだろう。
ラシュウはふよふよと空中を漂っている為に、揺れを感じることはない。だから彼女の『酔い』というものも、いまいち分かりかねていた。
「体調管理ぐらい、ちゃんとしとけよ?」
「……うー」
(ああ、完全に駄目だ)
いつもなら軽口を叩くと本気にして返してくる彼女の声が聞けないことに、若干の憂いを感じながら、何かできることはないだろうかと思案する。
安静にさせておいた方がいいのだろうか? ……そういえば、風に当たると気分が紛れると、聞いたことがあった。
「外で、風にでも当たったらどうだ?」
「………………ね、る……」
少し悩んだのだろう間が空いて、しかし彼女は小さく言い置いて、ぐるんと寝返りを打った。
シーツに包まり、寝る準備に入った彼女を横目で見つつ、ラシュウはふわりと宙を蹴って部屋の外へ通ずる扉へ向かう。
「じゃあ、俺は外にいるからな。ちゃんと寝てろよ?」
彼の台詞に鴇色の頭がこくんと動き、白いシーツの隙間から覗いた手が揺れた。
ぱたり、とそれはすぐに落ちて、次いで肩がゆっくりと上下に動きはじめる。
どうやら本当に寝に入ったようだ。彼女を起こさないようにゆっくりと扉を開けたラシュウは、部屋を後にした。
「……ふぅ」
吹き抜ける海風は暑くもなく寒くもなく、心地良いもの。
人影のない甲板に出たラシュウは、そっと息を吐き出した。
ごおごおとうねる波の音が耳に届く。意識が揺らぎ、すうっと感覚が遠くなっていく中、ふと、一人の女性の姿が浮かび上がった。
「…………そういえば」
あいつも、最初は船が駄目だったなぁ……。
脳裏によぎるのは、長い髪の女性。
あいつに仕えていたのはいつの頃だっただろうか。
随分と昔のことのように感じられ、けれど実際はそんなに月日は経っていない。
郷愁にも似た感情が沸き起こり、目を細めて懐かしむように脳裏の彼女の姿を愛しく見つめる。
もう見ることは叶わないだろう彼女の姿は、今でも鮮明に思い出すことができる。どれほどの時間が経とうとも、この記憶は失わせない。喪
そこで、はっと我に返った。
「……馬鹿か、俺は……」
今まで感じていた感情が、冷たく心の奥底に沈んでいく。
何故、今こんなことを思い返しているのだろう。ラシュウは内心の疑問に葛藤するが、言い表すことのできない何かに、ただ不安ばかりが重くのしかかった。
「……っ」
不安定なものを振り払うように、首を左右に振る。
(落ち着け……落ち着け……)
自分に暗示をかけるように、何度も何度も繰り返す。
視界の隅をかすめたバンダナが、妙に彼女を意識させた。
「――――らしゅー……」
物思いに耽っていたラシュウの背に、いきなり声がかかった。今は部屋で寝ているはずの、少女の声。
驚いて振り返ると、案の定そこにはミーシャの姿があった。よたよたと何とも頼りない足取りで歩いてくる。
「おい!?」
(大人しく寝ているといったのは、どこのどいつだ!!)
慌ててミーシャに近寄る。
「風に、あたると……いいんでしょー……」
どうやら余計なことを言ってしまったようだ。
声音にいつもの元気さがない。
今更部屋に戻すのも、彼女の負担をかけるだけだろう。ラシュウはよれよれしているミーシャを全身で支えながら、手すりに体を預けさせた。全体重が後ろにかかると海に真っ逆さまになるので、慎重に。
ラシュウの気遣いを知ってか知らずか、ミーシャはそっと微笑を浮かべた。
「……うん、風に当たると、平気かも」
ベッドの中にいた時よりも、体が軽い気がする。
そう呟いたミーシャを横目で見ながら、彼女に気付かれないように手を振る。
頬を撫でる風が海風とは全く違うことに、彼女は気付かない。
「お前は、自分の体調ぐらい管理できないのか」
二度目の台詞に、ミーシャはいつものように頬を膨らませた。
「無理だってば!」
いつもの彼女の返事に、ラシュウは苦笑をこぼす。
(――このぐらいの元気があれば、大丈夫か)
そっと、指先で風を操る。それに反応して、癒しの力を持つ風――〈癒しの風〉が、四散していった。
「ねぇ、ラシュウ」
「ん、何だ?」
ふわりと宙を漂う精霊を見上げて、しかしミーシャは「何でもない」と返した。
(……よかった。いつものラシュウに戻ってる)
船に乗り、その行き先がクリオス大陸だと知り、そして昨日の話をしてから、彼の態度はあきらかにおかしかった。
何かに対して焦っているような、悲しんでいるような、曖昧な雰囲気。
それを無意識の内に感じとっていたミーシャは心配していたのだが、どうやら杞憂に終わったらしい。
しかし、考えごとも束の間。
体が揺れ始めた。否、揺れているのは感覚のみだ。ぐわんぐわんと頭が回っているような気持ち悪さに、口元を押さえる。
「うぐ……気持ち悪くなって、きた……」
いきなり変わった彼女の変化に、ラシュウも驚く。
彼は慌てて、四散した〈癒しの風〉を彼女の周りに集めた。
こてん、と座り込んだ少女の顔色は、少し青くなり始めているような気がした。
「……はぁ」
指先で風を操りながら、嘆息をこぼす。
「気分悪くするなよ……折角、俺が〈癒しの風〉使ってるのに……」
「…………え?」
彼の小さな呟きは、気分が悪くなってへたり込んでいる少女の耳にもばっちり届いた。
はっと、半ば呆然としているラシュウに、ミーシャは目を見開く。
(まさか、あのラシュウが自分の為に力を使っているなんて!)
「っ! い、今のは聞き流せっ」
無意識の内に言葉に出てしまったものを、弁解するのは難しい。
ラシュウは慌ててそう言ったが、ミーシャは聞く耳を持たずキラキラと海色の瞳を輝かせた。
それを見て、うっと呻きながら後退る。
「ねぇ、本当なの? 力、使ってたの?」
自分のした行為を直球的に問われて、羞恥の念にかられた。顔に熱が集まってきたことを感じたラシュウは、踵を返してその場を逃げ出した。
「あ! ちょっとラシュウー!」
背後から迫ってくる声に、ラシュウはぶんぶんと頭を振りつつ両耳を両手で塞いだ。
「聞き流せ――――っ!」
晴れ渡る青空の下。穏やかな海の上。
船上でラシュウの叫びが響き渡った