不透明なもの 2

 翌日。ミーシャが一人起き上がっていた所に、窓の外からやって来た(どうやら昨夜は外出していたようだ)ラシュウと、ばっちり目が合ってしまった。
「……お、おはよー」
「…………はよ」
 若干変な間が入ってしまったが、ミーシャがぎこちない挨拶をすると、返事は少し遅れて返ってきた。
 それが少し嬉しかったのは、心の中にしまっておく。
「準備、できてんのか?」
 ミーシャに背を向けて、窓際に置かれた一人用の小さなテーブルに腰掛けたラシュウの質問に、疑問符を浮かべた。
(あれ、何かあったかな?)
 上着を脱いで、替えの服に服に手を伸ばしながらミーシャは疑問をそのまま口にした。
「何かあったっけ?」
「っお前!」
 ガバッと振り返ったラシュウに、きょとんと目を丸くする。
「今日は船に乗る予定だろ! 忘れたのか!?」
「…………あ」
 すっかり忘れてた。
 言葉に出さずともその態度で気付いたのか、がくりと両肩を落とし溜息を吐いているラシュウ。
「忘れんなよ……早く行かねぇと無くなるぞ」
「むむ、そんなこと言われても」
「黙れ。さっさと支度、を……」
 徐々に声が小さくなっていく彼に首を傾げる。あれ、どうしたんだろう……何だか固まってる。
「〜〜〜〜っ!」
 ボッと顔が真っ赤になった。それはもう、ものの見事に。
 真っ赤なリンゴになってしまったラシュウを、内心おもしろいなーと思いつつ見ていたら、おもむろに彼が口を開けた。
「さ、さささっさと着替えろ馬鹿がッ!」
 何だか意味不明にどもりつつ、負け犬の遠吠えの如く怒鳴って彼は窓の外へ飛び出していった。
 ラシュウの言葉に、はっとして自分の体を見た。ズボンは穿いている。上着、なし。イコール、下着。
 慌てて出て行ってしまった彼の行動の意味を知り、ミーシャも彼のように顔を真っ赤にした。
「は、恥ずかし……」
 後ろを向いていたのはその為かと思いつつ、どっちにしろこちらを向いてしまったラシュウに申し訳なさを感じつつ、ミーシャは素早く着替えて荷物を整理し始めた。

 と、いうのが今朝の出来事。
「……つ、つかれたぁ」
 ざあざあと波が船を打ちつける音を聞きながら、ミーシャは手すりにもたれかかった。
 宿をチェックアウトし、急いで港に向かうも既に一便は出港した後だった。次の便もすぐに出るということだったので、早急に手続きをして乗り込んだのだ。
 時間になったのだろう、先程汽笛を鳴らして港を離れたこの船は、現在海の上だ。
「いつまでも寝てるのが悪い」
「うぅー……だってー……」
 気になることが多すぎて眠れなかった、とは言えない。
 多少なりとも気まずさがなくなったこの雰囲気を、壊したくなかった。
(……アンリタにも、会えなかったし……)
 港に向かうまでの道のり、淡い希望を抱いていたもののアンリタに会うことはできなかった。街を歩き回る時間も余裕も無かったからかもしれないが、一言だけでも話がしたかった。
 それに、フルートも渡せなかった。彼の私物を捨てるわけにもいかず、荷物の奥底に入っている。……持っていても、いいのだろうか。
「それにしても、行き先がクリオス大陸の方だとはな」
 一人呟くように零れ落ちたラシュウの台詞に、悩みの海に飲まれていたミーシャは意識を戻した。
「え、どうして? 別にどこでもいいじゃない」
「…………はぁ」
 あからさまに溜息を吐いたラシュウを、じっと睨みつける。何よその可哀想な子を見るような目は!
「お前、あの大陸がどんな場所か知ってるのか?」
「全く知りません!」
 ミーシャはにっこりと笑顔で否と答えた。
 知識として、名前は聞いたことはある。世界の南の方にある、海に囲まれた大陸だったはずだ。
 しかし知っているのはそれだけであって、結局の所その大陸がどんなものなのかは分からない。
「つくづく阿呆な奴」
(……嫌味しか言えないのだろうか)
 なんてことは口が裂けても言える筈がなく、ここは大人しくしておこうとミーシャは聞く体勢に入った。
「クリオス大陸といえば、古代の文明がそのまま色濃く残っている場所だ」
 ラシュウはミーシャと視線を合わせることなく、海を見ながら言った。
「まあ、ルシファーナ大陸にも古代文明が残っている場所があるが……クリオス大陸は、大陸そのものが古代文明だろうな」
 ふーん、と納得するものの、ミーシャの中で一つの重要な疑問が浮かんでいた。
 それを彼に聞いた方がいいのだろうが……聞いたら聞いたで、後が恐い。
 いや、今聞かなかった方が後々恐いかもしれない。
「あ、あのっ」
「……何だ」
 片目を眇めたラシュウに、ミーシャは叱られるのを覚悟に聞いてみた。
「……クリオス大陸とか、ルシファーナ大陸って……ど、どこにあるのっ?」
 最後の最後にどもってしまった。
「………………お前」
 たっぷりと間を空けた後、ラシュウは呆れたと手で顔を覆いつくした。同時に零れ落ちた呆れとも怒りとも取れる大きな溜息に、びくりと肩を震わせる。
 ぎろり、と指の隙間から睨み利かせた瞳が、ミーシャを射抜いた。
(こ、これだから聞くの嫌だったのに!)
 なんて、心の叫びが彼に届くはずも無く(いや、届いてほしくは無いけれど)。
「世界地理ぐらい知っておけよ……」
 彼の言葉にぷくっと頬を膨らませたが、反論はしなかった。
 ここで反論しようものならば、彼の苦言が飛ぶのは目に見えている。それだけは切実に避けたい。
「……うーん……地図……地図、か……」
 ふよふよと宙に浮きながら、顎に手を添えて考え込んでいるラシュウに、ミーシャはどうしようかと悩んだ。
 彼の言う地図とは、つまり世界地図のことだろう。
 それを持っていれば大陸の場所はすぐに分かるのだが……生憎と、そのようなものは持っていない。
「――――あ、そうか」
 ふと、声が耳に届いた。
 何となく視線を向けると、彼は手の平を前に突き出していた。
「我の前に現せし風の飛よ」
 ラシュウの口から発せられる言霊は、力あるもの。
 急に、穏やかだった海風が鋭さをはらんだ。目に見えない風が、徐々に彼の手の中に集まっていくのを感じる。
 おもむろにラシュウは、その集まった風の塊に息を吹きかけた。その瞬間、無色透明だったそれが、薄緑色に染まった。
「我が思いをなぞらえ、形を成し示せ」
 言霊は更に続く。いつの間にか、球体だった風は薄く平べったい長方形を成していて、先程の声に呼応するように、幾つもの絵と文字が浮かび上がってきた。
「うわ、すごい……っ!」
 完成したそれは、風で作られた世界地図だった。
 目の前で起こった出来事に感嘆するミーシャをよそに、ラシュウはふんと鼻を鳴らす。
「こんなのできて当たり前だ」
 勝ち誇ったような表情を浮かべる彼を、ミーシャは見上げる。
 何だかんだ言って、こういうことをやってくれる彼はとても優しいと思う。強気で見下した態度をとってしまうのは、きっと照れているからだろう。
 勝手に解釈し納得するミーシャに気付くはずもないラシュウは、地図を片手に説明を始めていた。
「――で、ここがクリオス大陸だ」
 はっと我に返ったミーシャは、彼が指し示している左下の部分を見る。
 上を北と見て、南西の方角だろう。クリオス、という文字と大陸の絵が、太い線で強調されていた。
「それでここがルシファーナ大陸」
 ふっと、強調されていた部分が元に戻り、クリオス大陸の北にある大陸の絵と文字が太く強調された。
 一つの横長い大陸の内側、山脈を境に左側をルシファーナ大陸、右側をワラナ大陸。さらに運河を隔てた左側にあるのがロウス大陸、と続けていく。
「で、北にあるのがカーロス大陸。以上、地理の説明終了」
 ぱん、とラシュウが手を叩くと、風の地図はふわりと四散した。
「それで本題に戻るが……その、クリオス大陸には、ある民族がいるんだ」
 あまりぴんとこない言葉に、ミーシャはただ首を傾げる。
「俺は……好きじゃないんだ」
 あの場所も、あいつらも。
 手すりに腰をかけて腕を組んだラシュウの瞳は、どこか遠くを見ていた。どこか悲しげなそれに、ミーシャは眉を八の字に下げる。
「……ねえ、ラシュウ」
 彼を見ずに、空を見上げながら言葉を続ける。
「何があったかは、聞かないけどさ……」
「……?」
 ラシュウの訝しげな視線を感じながら、真上に来ている太陽に、手を伸ばす。
「あんまり難しいこと考えないで、気楽になればいいと思うよ」
 言い終えて、改めてラシュウに向き直る。彼の瞳とぶつかった。
 にっこりと笑うと、彼の瞳が放っていた冷たい光が……和らいだ気がした。
「………………阿呆」
「あ、阿呆!?」
「阿呆だよ! この馬鹿がっ!!」
 突拍子も無く言われた台詞に食いつくと、彼は苦笑を浮かべながらそう言い返してきた。
 いつもと何ら変わりない雰囲気に、ミーシャはそっと安堵の息を吐いた。

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