不透明なもの 1

「えっ!? 風伯ふうはくさまが!?」
 風伯というのは風神の別称だ。風の民が、かの神を敬い、崇拝し、尊ぶ意味合いを込めてそう呼び称えている。
 しかし彼女曰く、「崇められても何かがあるわけでもないのだから鬱陶しいだけだ」と嘆息と共にこぼしていたのは、ラシュウだけが知っている。
 その風神とラシュウによって、この場を包み込んでいた〈よどみ〉は浄化された。
 そしてミーシャが目を覚ましたのはつい先頃。目を開けた瞬間、目の前にラシュウがいたことに驚いたのだが、彼から散々嫌味の叱咤が飛んだのは言うまでもない。
「そうだ。お前はよく寝ているしな」
「寝てないから!」
 気絶だからと叫ぶが、ラシュウは聞く耳を持たないとばかりにあらぬ方向に視線を向けていた。
「聞けー!」
「聞いてるから喚くな」
 聞き流しているがな。
 心の中でそう呟いたラシュウは、先程の風神との会話を思い返していた。

 ※

「……風神、あのアンリタって奴のこと……どう思う」
 〈よどみ〉を浄化した風神の傍にたたずんでいたラシュウは、おもむろに口を開いた。
「さぁて……人間ではないことは確かかのぅ」
 風の民であるミーシャが倒れるほどに濃い〈よどみ〉の力。ラシュウや風神でさえも、気を抜けばその〈よどみ〉に飲み込まれてしまいそうだった。
 そんな中、彼は何事も無いかのように平然と立っていた。
「人間でないのなら……」
「我が思うに、あの童はノーディだな」
「ノーディ?」
 聞き返すラシュウに、風神は頷いた。
「名前ぐらいは聞いたことがあるだろう?」
 ノーディというのは、異世界に住まう人間によく似た容姿の魔物のことだ。
 普段は集団で自給自足の生活をしているという。彼らの性は温厚で、争いを好まないことで有名だ。
 しかし、ごく稀に、畏怖とも呼ぶべき存在が生まれてしまう時がある。何千分の一という確立で、冷然とした仔が生まれる。残虐な性格を持ち合わせ、ノーディとは思えないほどの恐ろしい力を兼ね備えた魔物。
 弱い魔物を惨殺し、時には同族をも屠る。
 ただひたすら自分の愉しみの為に血を浴びる魔物。
 きっと、アンリタはノーディの中の、恐怖の仔。
 風神はラシュウに悟られないように、詰めていた息をそっと吐いた。
「だが、ノーディは今……」
 中途半端に途切れてしまったラシュウの台詞に、その続きを理解した風神は肩をすくめる。
「あぁ。随分と前に姿を隠したらしいの」
 何故だか知っているか? と目で問いかけてきた風神に、ラシュウは知らないという意味合いを込めて首を横に振る。
 彼女は少し逡巡した後、言葉を続けた。
「双生の忌仔」
「っ!?」
 風の頼りで聞いたことがある言葉に、ラシュウは目を見開いた。
「奴らは同族を殺め、全滅寸前までに追いやった」
 それはとあるノーディの間に生まれた双生児。一族は滅多に無いことと喜んだという。
 男児と女児の仔は一族に愛され、すくすくと育っていった。
 しかし、その双生児は恐怖の仔だった。
 幼いながら突如豹変した二人は、同族を殺め続けた。多大な犠牲を出しつつも、命からがら生き残ったノーディたちは、彼らに見つからないよう隠れた。
 それは何年前のことだったか……ノーディは未だ隠れているのか。それとも息絶えてしまったのか。
「たぶん、奴はその双生の片割れだろう」
「……だが、何故そいつがここにいる」
「魔導師の〈マガラ〉だからだろう」
「…………召喚獣ってことかッ!」
 くそっ、と舌打ちする。
 魔導師と呼ばれる術者の中で、異世界の魔物を呼び出す召喚術の力に長けた者のことを魔導師と呼ぶ。
 そして、召喚された魔物を〈マガラ〉と称する。
「……奴らは嫌いだ。喚び出した奴を力で屈服させ、下僕とするなんて」
 大半の魔導師は、自分の利益の為だけに異世界の魔物を喚ぶ。そこに、喚ばれたものの意思は関係ない。抗おうとしても力に捻じ伏せられる。抗えば抗うだけ力は増大し、息がつけないほどに自身を圧迫する。
「奴らに慈悲なんてものは無いのだろう」
「ふざけやがって」
「奴らは自分勝手すぎる。我らの気持ちも考えてほしいものだのう」
 うんうん、と頷いていたらしゅうは、ふと先程の彼女の台詞に違和感を覚え……眉間に皺を寄せた。
「……おい」
「ん? 何だい、小さな精霊よ」
 にやにやと笑う彼女は、どう見たって確信犯だ。
「今、俺のこと〈マガラ〉扱いしやがっただろ! しかもお前も違うだろ!」
 怒りを露にするラシュウに、風神はふんと鼻を鳴らした。
「喩え話だろう。そんなに吠えるな」
 くっくっくと笑う風神は、急にすぅっと目を細めた。
 いきなり変わった彼女の雰囲気に、思わずラシュウは身構えてしまう。
「お前、これに従っているであろう?」
 彼女の視線の先には、いまだ目を覚まさず倒れている少女の姿。
「…………別に、従っているわけでは……」
 それきり口をつぐんだラシュウは、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
 従っている、というわけではない。確かに彼女との出会いはあれだったが、どちらかといえばミーシャがラシュウに従っているという感じだ。
 それでも、二人の間に上下関係も主従関係もない。そこにあるのは対等な付き合い。
 互いに損益を考えず、ただありのままの姿で。
「――――悪い」
 唐突に響いた声に、はっとして無意識の内に下げていた顔を上げた。
 揺れた視界に映ったのは、ばつが悪いとばかりに苦笑を浮かべる風神の顔。
「そんな表情をさせるつもりは無かったんだがねぇ」
「い、いや……」
 別にどうでもいい。そう否定しようとして、何も言葉が出なかった。
「深く考えることはなかろうよ。気楽にな」
「……はぁ。気楽なのはお前だけで十分だ」
 思っていたことがそのまま口に出てしまい、しまったと思った時には遅かった。
「何? 聞き捨てならんのぅ」
 ニヤリと口の端を吊り上げた風神の笑顔が、とても恐い。頬を引き攣らせて後退るものの、彼女からは逃れられないような気がした。
 じりじりと近寄ってくる風神に対し、じりじりと後退するラシュウ。
「…………んっ……」
 ふと、耳に届いた第三者の声に、彼女の鋭い視線が逸れた。
 翡翠の瞳が完全に自分を視界に映さなくなった瞬間、ほっと安堵の息を吐いた。あのままだったら、きっと彼女に(いろんな意味で)遊ばれていただろう。
 それを和らげてくれた声の主に、一応、感謝しなくては。
 ゆっくりと風神の傍に近づきながら、彼女と同じように視線を下げて少女を見る。
「そろそろ覚める頃合いか?」
「そうだな」
「では、我は行くとしようかの」
 その言葉が言い終わるか否かの瞬く間、風神は一瞬にして鳥の姿になると、翡翠色の翼を大きくはためかせた。
「注意しろ」
 彼女の警告が、耳に反響する。
「奴らの狙いが何であれ、また接触してくるであろう」
「だろうな」
 ぎりり、と奥歯を噛みしめる。
 相手の意図が分からない今、どうにも動けない。しかし、動かずにいるわけにもいかない。
 なるべくならば、もう二度と出会いたくないのだが。
「……心配か?」
 何の、とは聞いてこない。
 けれど、何となくその言葉が意味するものを感じとったラシュウは、自嘲的な笑みを浮かべた。
 何だかんだ言っても、やはり……心配は心配だ。
「そうだな」
「……そうか。無くすなよ」
 ふわりと舞い上がった風の鳥。風に乗り、瞬く間に姿を消した彼女を見送り、そっと息を吐き出す。
(…………無くすな、か……)

 当たり前だ。無くしてたまるか。

 ※

 ――双生の忌仔。〈マガラ〉。
 風神の残した二つの言葉が、今もまだ脳裏に残っている。分かっているのはこれだけだ。しかもその両方とも憶測に過ぎない。分からないことばかりで、焦りは苛立ちへと変わる。
 ラシュウは内心の苛立ちをミーシャに感じさせないよう、努めていつもの冷静な表情を浮かべた。
「そういえば」
 ふと、ミーシャが思い出したように口を開いた。
「ねえ、もう一人いなかった?」
 きょろきょろと辺りを見渡しつつ問いかけてくる少女に、開いた口から言葉は出なかった。
「…………」
「?」
 訝しげに首を傾げてくる少女を横目で見つつ、どうしようかと悩む。
 先の風神との会話でも、まだ話さない方がいいと結論だした。自分としてもその方がいいと思う。
 けれど、本当にそれでいいのだろうか……?
「…………アンリタ、ていう奴のことか?」
 思わず口にしてしまったかの青年の名に、内心で舌打ちする。
 ラシュウの疑心を知らないミーシャは、彼の口から出てきた名に目を丸くした。
「うん、そうだよ。何で知ってるの?」
 純粋な彼女の質問に、答えられずに視線を落とす。
 まさかそいつと会いました。そいつは俺たちの敵で、もう会うな……なんていきなり言えるはずが無い。
「ねぇ、どうしたの?」
 ミーシャは立ち上がりかけて、視界の隅で輝いたものに気付き、そちらへと視線を向けた。
 銀色に輝く本体。細身の円柱状の形。それから奏でられる音は、さながら小鳥のようだった。
「これ、アンリタの……」
 そっと手を伸ばして触れたのは、彼が持っていたフルートだった。
「――もう、奴には関るな」
 痛いほど棘のある言葉が聞こえ、ミーシャはフルートを握り締めて立ち上がった。
「どうして? これも、アンリタのだから返さないと」
 きっと忘れていってしまったに違いない。もう一度会って返さないと。
 フルートから視線を外し、ラシュウに向き直ったミーシャは、びくりと肩を震わせた。
「っんなの捨てろ!」
 ラシュウの表情が、いつもとは違っていた。
 その怒りに満ちた表情は、いつも怒った時に見せるものではない。まるで、別人のようだと思えた。
「だ、だめだよ! きっと困ってるもん!」
「……ッ!」
 ラシュウの手が、乱暴にフルートに触れた。ミーシャははっとして、手に力を込めてそれを守るように抱え込む。
「だ、だめだって」
 縋るような思いで言い放つと、もう手が出せないと思ったのだろうか、ラシュウは手を引いて少し離れていく。
「……ラシュウ、どうしたの? 何かあったの?」
「…………奴には、関るな」
 頼む。小さく呟かれた声が、とても弱々しかった。
「……」
「……行くぞ」
 もうミーシャにもフルートにも用は無いとばかりに、ラシュウは彼女の横を通り過ぎていった。
 どうしてか、怒りに満ちた表情の彼の瞳は、とても悲しそうに揺れている気がした。

 あの後、ミーシャは気まずさからラシュウとほとんど喋ることなく宿に戻り、夕食もそこそこに切り上げてベッドにもぐりこんだ。
 ラシュウも雰囲気で察したのだろうか、気付いた時には彼はいなかった。
「…………」
 何が何だかよく分からない。どうして彼は「アンリタと関るな」と言ったのだろう。何でアンリタの名前を知っていたのだろう。
 ……何で、あんな哀しそうな瞳をしていたのだろう。
(――――……私が意識を失っていた時に、何かあったのかな……)
 目を開けたらラシュウがいたし、風伯さまが来てたみたいだし、アンリタはいないし。
(……明日、会える…………かな?)
 多すぎる悩みを抱えつつ、淡い一つの願いを抱きつつ、瞼を落とした。

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