朝食を終えたミーシャとアンリタは、本通りを歩きながら色々な場所を見て回った。流石に全部は回りきれないので、アンリタに幾つかピックアップしてもらっての移動だったが。
里から出たことが無かったミーシャにとっては、見るものほとんどが新鮮だった。
そして現在、町から少しだけ離れた丘の上で昼食にした。今朝の店で持ち帰り用にと包んでもらったパンを頬張りつつ、暫しの休憩。
「……ふはー」
そよそよと吹きぬける風は、とても気持ちよかった。
「そういえば」
ミーシャはアンリタに向き直り、口を開く。
「アンリタって、吟遊詩人だって言ったよね?」
「はい」
「楽器は何を使っているの?」
吟遊詩人と言われて、思い浮かぶのは竪琴だ。言葉と音で話を謡い伝えるのを
アンリタもそうなのかと問いかけると、彼は否と答えた。
「僕はですね」
するり、と腰にぶら下げられていた細長い袋から、銀色に輝くものを取り出した。
「?」
見たことが無い楽器に、目を奪われた。
細く長い金属製の管には幾つもの穴が空き、鍵装置が施されている。端にある吹き込み口からのびる繊細な模様は、よくよく見たら何かの花をあしらっていた。
「フルート、っていうんだよ」
フルート。繰り返すように呟くと、彼は微笑を浮かべた。
「聴きたい?」
「うん!」
勢いよく頷いたミーシャに苦笑し、立ち上がったアンリタは数歩歩いて距離をとり、立ち止まる。
「では。――ご静聴願います」
ドキドキと、いつもより早いテンポで胸が鳴っているのを感じながら、ミーシャは耳を澄ませた。
一瞬の間、何の音も無くなる無音の世界。
刹那、風を震わせる音が鼓膜に届き、目を見張った。
「…………すごい」
彼の演奏を邪魔しないように、そっと呟く。
その音は、まるで小鳥がさえずるように高く綺麗だった。強弱、高低のつけられた音色は心を魅惑するように響いていく。
ずっと聴いていたいと思うような音色は、不意に小さくなったかと思うと、彼は歌口から唇を離した。
「さわりの部分だけなんですけど、どうでした?」
「す、すごいよかった!」
未だに耳に残る旋律に、ふわふわと浮かれた気分のままそう答える。
彼は「よかったです」と言って、もう一度フルートに口を近づけた。
「――――……」
すうっと再び響き始めた音。先程とはまた違う音色。澄み渡るようなメロディーに、聴き入った。
今度の曲は長く吹いてくれるようだ。
目を瞑り集中しているアンリタを眺めていたミーシャは、唐突に寒気を感じた。
(……何?)
気のせいか、と思っていたその感覚は、しかし次第に大きくなっていく。
感じる寒気はいつの間にか悪寒に変わり、ドクドクと心臓の音がやけに大きく聞こえた。
「――……ッ」
「ア、アンリタ!?」
突然止まったフルートの音。
アンリタに視線を向けると、彼は今にも倒れそうなぐらいふらついていた。慌てて駆け寄り体を支えようとしたが、体格差があり支えることができずに座り込んでしまう。
「アンリタ!」
体を横たえさせて声をかけるも、意識を失っているのか返事が無い。顔は青白く、苦痛からか表情を歪ませていた。
「どうしよ……うっ!?」
口を開いた瞬間、入ってきた酸素――風に、思わず咳き込んだ。
「ケホッ……なに、この〈よどみ〉は……」
生ぬるい風が頬をなで上げ、気持ち悪さと吐き気がこみ上げてくる。
風気の異変に、ミーシャは顔をしかめた。
普通の人には見えない風の流れ。
風と共に生きている風の民であるミーシャは、その流れを見、感じることができる。
彼女が見て感じた風は、澱んでいた。本当はあってはならない事態に、戸惑いを隠せない。
「……〈風〉よっ」
言霊と共に力を放つ。それは身を守る為の風の浄化の力。いつだったか、里にいた時習ったものだ。
風の民は、己が身の持つ気の力で、澱んだ風を清浄にすることができるのだという。
〈よどみ〉というのは生あるものが発する負の気によって変化したもの。その〈よどみ〉に対し、それ以上の浄化の力を使えば、風は元に戻る。
徐々に浄化されていく周りの風を見て、ミーシャはほっと安堵の息を吐いた。
「――――……ミーシャ、さん?」
かすれた声が耳に届き、はっとして視線を移す。重たそうに瞼をゆっくりと持ち上げてたアンリタと目が合い、良かったと肩の力を抜いた。
「大丈夫、アンリ――」
「……ああ、ミーシャさんの傍は」
ミーシャの言葉を遮り、ひたりと冷たい彼の手が頬に触れた。
「とても居心地がいい」
ゾワリ、と背筋を冷たい衝撃が走りぬけた。
「ッ!!」
途端に膨れ上がった〈よどみ〉に、成す術も無くミーシャは倒れこむ。浅い呼吸は今にも止まってしまいそうで、しかし必死に意識を繋ぎとめようとした。
ここで倒れたら、またアンリタが倒れてしまう。この〈よどみ〉を浄化できるのは、この場にいる自分しかないのに……倒れちゃ、駄目だ。
(…………あ、駄目だ……)
暗くなっていく視界。
「――オヤスミ。小さなオヒメサマ」
耳元で囁かれた声。
そして遠くから聞こえてきた、聞き慣れた声。どこか焦っているように響いたのは、何故か。
どうしようもなく足掻きながらも、ミーシャの意識は落ちていった。
風の異変を感じ取ったラシュウがその場に辿りついた時、視界に入ってきた鴇色の髪に思わず叫んだ。
「ミーシャ!」
しかし、彼女は何の反応もみせず地面に倒れ伏している。
「君は、この子の連れですか?」
この場にそぐわない飄々とした言動に、柳眉を逆立てて青年を睨みつけた。その鋭い眼光に物怖じすることなく、ゆらりと立ち上がった彼はニタリと笑う。
「貴様、誰だ」
「……僕はアンリタ。よかったら覚えておいてください」
アンリタ、と低く呟く。
その響きはどこかで聞いたことがあるような、何か引っ掛かりを感じた。
はっきりとしないその気持ち悪さに、吐き気がする。
「遠慮しておく」
「それは残念です」
その表情は、あきらかに残念がっているものではない。どこか面白そうにこちらを眺めている瞳は、酷く歪なものだ。
「……それにしても」
一人呟くように、アンリタは顎に手を添えた。
「おかしいな。かかるのはアイツの予定だったのに……」
ぶつぶつと小声で言う彼の言葉は、ラシュウの耳にも届いている。憤然たる面持ちで彼を睨みつけたまま、首を傾げた。
アイツ、とは誰のことだ。
暫く熟考を重ねていたアンリタは、ふと何かに気付いたように顔を上げてラシュウをじっと凝視する。
オレンジ色の瞳が真っ直ぐ向けられ、まるで何かを暴くようなねっとりとした視線に、耐え切れず表情を歪ませた。
「…………何だ」
低い声で問いかけてみれば、彼はうっとりと目を細めた。
「……いえ。そうか、ハハ……」
彼は何かを納得したように、歪んだ笑みを浮かべた。
訝しげにラシュウは眉を寄せる。
「気にしなくていいですよ。……本当にかかってくれたことに、驚いただけですから」
彼の言葉が言い終わるか否かの瞬間、辺りを覆い尽くしていた〈よどみ〉が一瞬にして清浄なものに変化した。
背後に降り立った見知った気配に、はっとして振り返る。
「お主の目的は何だ」
煌々と輝く翡翠の体躯。額には紅玉が煌き、大きな翼が羽ばたくと同時に、清らかな風が巻き起こる。
細長い尾をぴしりと揺らして、唐突に現れた巨鳥は威嚇するように翼を打ち鳴らした。
けれど、アンリタは動じるどころか嬉しそうに笑みを深くした。
「さぁ? 何でしょうね」
教える気はさらさら無いと、態度で表したアンリタは口の端を吊り上げる。
「……いずれ、また会いましょう」
不気味な笑みを浮かべた彼に、一瞬息を呑んだらしゅうは慌てて宙を駆けた。
捕まえようと手を伸ばしたが、指先が触れる寸前に彼から異質な気が発せられ、身構える暇も無く吹き飛ばされてしまう。
風を操って何とか体勢を直すものの、向けた視線の先には既に人影は無かった。
「……くそっ」
「落ち着け、精霊」
「…………
巨鳥はミーシャの傍に降り立っていた。ラシュウもそこに近づく。
「何の用でここに来た?」
「神に向かってそのような言動でいいのか?」
威圧的な態度で見下してくる巨鳥――風神に、しかしラシュウは臆することなく腕を組んだ。
「お前を敬う気は一切無い」
きっぱりと断言した精霊を見て、風神はくつくつと苦笑いする。
「それで、何の用だ?」
硬い声音で問いかけるラシュウに、風神は態度を改めた。鋭利な瞳が精霊を捉える。
「お主も分かっておるだろう?」
突如、突風が吹き抜けた。いきなりのことに驚きつつ腕で顔を覆い、風をやり過ごす。
一瞬にして風は止んだ。ゆるゆると腕を下ろすと、鳥の姿だった風神が人の姿を成していた。
瞳は鳥の姿の時と同じくエメラルド。緩いくせのある翡翠の長髪。胸元には真紅の玉が、太陽の光を反射していた。
「やはり、こちらの姿の方が我は好きだ」
ひらりと服を翻しながら、人の姿の風神は笑みの形に唇を歪ませた。
「そんなことはどうでもいい」
しかしばっさりと切り捨てた彼の素っ気ない態度に、やれやれと肩をすくめる。少しぐらい冗談に付き合え、と風神が思っていたことをラシュウは知る由も無かった。
ふぅ、と小さく息を吐き、真剣な表情になる。
「この風の〈よどみ〉が普通じゃないことに……勿論気付いておるな?」
ラシュウが無言で頷くのを見、言葉を続ける。
「誰かが作為的に行ったもの」
〈よどみ〉は云わば負の塊。
小さなものでも、集まり大きくなれば人に害を成すほどの力を持つ。
しかし普通は〈よどみ〉が集まり、人に害を成すほど大きくなることは無い。自然消滅してしまうのが常で、この現状は意図的に作り出さなければ説明がつかない。
「奴は手先。主犯がおるの……」
不気味なほどの歪んだ笑みが、未だに印象強く残っているアンリタ。
ラシュウも風神も、彼がこれをやったとは思っていない。例えやったとしても、〈よどみ〉を放出させる何かのきっかけを与えただけに過ぎない。
今はまだ表に出てこない裏の人物の仕業。
「……やはり……あいつ、なのか……?」
囁きよりも小さい声が零れ落ちる。
それはどこか悲しみを帯びていて、風神は横目でラシュウを見た。
――痛みを堪えているような、それでいて必死に傷口を隠そうとしているラシュウの表情。彼自身、それを自覚はしていないのだろう。平静を保っているように見えるが、そんなのはまやかしだ。
彼は、どこか変な所で意地っ張りだ。やれやれ、と風神は内心嘆息を漏らす。
「……奴にはまだ言わぬ方がいいだろう」
話を変えるように、風神は倒れている少女を見やった。つられて、ラシュウも少女を見る。
未だ何も知らぬ少女。
無垢で純粋な心を持つ少女に……これは、重すぎるだろう。
そして何よりも、己の抱える秘密を知られたくない。
「さてと。ここを完全に清めないとな。お主も手伝え」
「……は? 何故俺が?」
「口答えは赦さん。ほれ、さっさとしないか」
どこまでも自分勝手な風神に対して、ラシュウは気付かれないようにそっと溜息を吐いた。