風は外の世界へ飛ぶ 1

 清々しい朝だなぁ、と家を出たミーシャは思った。
 数日前まで続いていた雨はやみ、地面にできた水溜りを避けながら道を歩いていく。
「ふぁ……」
 暖かな日差しが眠気を誘い、無意識の内にあくびがこぼれる。
 そろそろうららかな季節に近づいてきているのだろう、いたるところに野草の花の蕾が花開く準備をしている。
 それらを眺めながら、ふとミーシャは今朝からラシュウがいないことを思い出した。
(何処行ったんだろう?)
 この里の中で行く所は限られてくるので、そう遠くへは行ってないだろうと思いつつも、彼がいないと妙にそわついてしまう。
 四六時中ほぼ一緒にいるからだろうか……うーん、何故だ。
 考えごとをしている内に、いつも技の練習をしている場所に到着してしまった。
「……ま、いっか」
 何とかなるだろうと結論づけて、ミーシャは携えていた杖を目の前で掲げた。



(…………やっぱりラシュウがいないと訓練にならない)
 地面に腰を落としてうな垂れたミーシャは、内心の思いをそのまま代弁するかのように嘆息を吐きだした。
 本当に何処行ったのよ。朝起きたらいつもの所にいないし、朝食の時にも姿を見せないし。
(出掛けるならせめて一言でも……)
 悶々と考え込んでいたミーシャは、ガサガサと草を掻き分ける音を耳にして、はっとその音のする方へ顔を向けた。
「……あ」
 まさかとは思っていたが、案の定、木々の茂みを掻き分けてラシュウが現れた。
 自分よりも背の小さな精霊を見下ろしながら、半ば怒りムードで彼に話しかける。
「ちょっとー、今まで何処に行ってたのよー」
 練習できないじゃない、と言えば、しかし彼は悪そびれた風もなくけろっとした表情で口を開いた。
「そんなことはどうでもいい」
 真顔で言われて、思わずミーシャは固まってしまった。
 ……どうでもよくないから言ってるのだ。それに「そんなこと」で済まされるようなことでもない!
「長が呼んでる」
「どうでもい…………って、は?」
 聞き間違いか? 彼の口から、今の状況下で出るはずのない名前が飛び出したような気がする。
 だが、そんなミーシャの現実逃避も、あらぬ方向を見ながら言ったラシュウの台詞に引き戻されてしまう。
「だから、長がお前のことを呼んでいる」
 ふぅ、何だろうなぁ?
 棒読みに近い彼の言葉に、ミーシャは呆然と立ち尽くすしかなかった。
 長が、呼んでいる。
 しかも名指しのようだ。
「…………ぇええええええええ――っ!!」
 私、何かしたっけ!?
 朝からミーシャの叫びが、里中に響き渡った。

 ※

 重い足どりで長の家の扉を開けると、待ってましたとばかりに長が待ち構えていた。
「おぉ。ラシュウ、今日はちゃんと連れて来たんだな」
 お邪魔します、と中に入ると、長の第一声はそれだった。
 何のことかわからず首を傾けるミーシャと、何だか苦虫を噛み潰した表情をしているラシュウを交互に見て、何を思ったか長はブハッと噴き出す。
「いつもならほったらかしているのになぁ!」
 ケラケラと笑っている長を、ラシュウは内心「うぜぇ」と思いながら見ていた。
「そ、それで長! 話があるって聞いたんですけど……何ですか?」
 このままではずっと笑い続けてるに違いない。
 止める気がないらしいラシュウを横目で見ながら問いかけると、長はそういえばと思い出したように笑いを堪えた。
「ハハ……あ、ああ、そうだったな」
 一度咳払いして態度を改めると、青年は『長』の表情になった。
 我知らず、ミーシャのたたずまいもぴしっと正しくなる。
「なぁ、ミーシャ」
 長のその瞳の輝きは、まるで好奇心溢れる無邪気な子供のようだ、とラシュウは思った。
「見聞広げるのに、外の世界へ行ってみないか?」
 一瞬、言われた言葉が理解できなかった。
 外の、世界。それはつまり……そういうことなのだろうか。
 内心のワクワクが溢れ出してくる。
「本当ですかっ!?」
「おう、本当だ」
 興奮冷めやらぬ面持ちで問いかけると、彼は是と答えた。
「まぁ、行くって言っても、ちゃんと知識を広げる為の云わば勉き」
「やったぁ――――!」
 長の言葉を遮って、ミーシャは全身で喜びを表した。両腕を上にあげて喜ぶ姿に、ラシュウはあんぐりと口を閉じることを忘れてしまった。
 呆れてものが言えない状況とは、こういったことを指すのだろうか。
 あまりにも嬉しかったのか、長が何かしらの声をかけているのにミーシャは気付かない。
(里から出て外の世界に……!)
 うわー、すごい! すごいよ!!
 外の世界に行くとなると、いろいろ準備しなくては。何が必要だろう。
 ……まあ、後で考えればいいか。
 何てったって初の外の世界! すごい楽しみだなぁ!
 有頂天になっているミーシャは、まだ長の話が途中だということをすっかり忘れている。
 急ぎ足で玄関となっている扉を開けると、そのまま出て行ってしまった。
「…………」
「…………」
 パタン、と扉の閉まる音が何故か大きく響いた。
「…………いつも思うけどさ」
 少女の姿が消えていった扉を見つめながら、長がぽつりとこぼす。
「あいつってせっかちだよなぁ」
「……そうだな」
 全くもって否定しない。寧ろ、否定できる判断材料がないに等しい。
 二人してため息を吐き出す。
「まぁ……詳しい話はお前に任せるよ」
 苦笑いを浮かべながら、長は精霊に言う。
 けれど、彼は何処か遠くを見ているようで、声は届いていないようだった。
「……」
 暫く小さな彼を見つめて、口を開く。
「不安なのか?」
「っ!?」
 今度は反応があった。
 面白いぐらいに動揺を見せた、滅多に見ることのできない彼の姿に、内心驚きと感嘆を感じつつ、口端を上げる。
「図星か。でも、あいつも里の中……風の民の中でも力は結構強い方だぜ?」
 だから、心配しなくても大丈夫じゃねえ?
「……別に、そういう心配をしているわけじゃ……」
 俯きながら視線を彷徨わせるラシュウに、長は目を瞬かせる。
 彼がこんな表情をするのは、初めて見た。
「もしかして男と女の二人旅にムラムラ? 若いねー」
「んなわけがあるかっ! 馬鹿言ってんじゃねぇよ!!」
 冗談で言ったことを真に受けたのか、怒声で返されてしまった。
 これには本当に驚いてしまった。いつもは冷静な彼が、こんなにも感情を露にしているなんて。
 長の見定めるかのような視線に気付いたのか、ラシュウはハッとして彼から顔を背けた。
「…………こっちにも、いろいろ事情があるんだよ」
 普段とは違う、彼らしからぬ雰囲気に、長は目を細めた。
「ふーん……」
 彼が胸に秘めていることを、長は知らない。彼と初めて出会ったときから何かしらを抱えていて、それに気付いたのはほんの数年前のことなのだけれど。
「……まあ、とりあえず」
 そっと彼に近づいて、その小さな頭に手を添えた。
「何とかなんだろ」
「……」
 いつもなら、こういったスキンシップは振り払ってしまうはずなのに。
 思いがけない長の気遣いに、ラシュウは何の反応をすることもできなかった。
 そんなラシュウの心情を知ってか知らずか、長はくすりと笑みをこぼす。
「あんま気張んなよ、精霊?」
 ミーシャのこと、頼んだ。
 長の言葉に、固まっていた頬の筋肉が緩んでいくのが分かる。
 そんなこと、言われなくても分かってる。
「……頼まれた」
 フッと笑みをつくったラシュウを横目で見ていた長は、静かに微笑んだ。



 カツリ、と歩みを止めてそれを見上げたミーシャは驚きを隠せなかった。
「ここが……ソーフォの祭壇……」
(……デカ……)
 初めて見た感想はこの一言に尽きると思う。
「呆けてる場合じゃないだろ」
 隣に立つラシュウの一喝に、しかしすぐに気持ちが切り替わるというわけではない。
「……すごいなぁ」
 思わずこぼれてしまったのだろうミーシャの本音に、耳に入ってしまったラシュウは気付かれぬよう小さく息を吐いた。
 不思議な色をしている石柱が並んだこの場所を、風の民は『ソーフォの祭壇』と呼んでいる。石柱の元となっている石の名前が風依石かぜよりいしと呼ばれ、自然の中から風の気を集めやすく発現しやすい。
 その発現した風の名を「ソーフォ」と呼び、この祭壇はその名を捩ったのだ。
 普段は風の神である風伯に供物を奉る時などに用いられている。
 それを、今回は別なことで利用するのだ。
「……で、ちゃんと持ってきたのか?」
「もちろん!」
 唐突なラシュウの問いかけに、ミーシャは鞄の中を漁ってものを取り出した。
 彼女の手の平の中には、石柱と同じ意思の欠片が幾つかのっていた。
 それを確認したラシュウは、一つ頷く。
「失敗すんじゃねえぞ?」
「大丈夫だってー!」
(…………心配だ)
 いかにも能天気な少女の態度に、感じていた不安が一層強まった気がする。
 だが、ここまで来て引き返すわけにもいかないのは事実で。
 ミーシャがソーフォの欠片を、ちょうど腰の高さにある祭壇の窪みに置いた。
「――よし」
 それは、覚悟という意気込み。
 一歩後退り、持っていた杖を強く握り締めた。
「いきます!」
 勢いよく振り下ろした杖の先端が地面と接触し、ガツッと鳴った。
 同時に、四方に立つ石柱が反響するように打ち震えた。
「すべての風は時の流れと共にあり」
 歌うように紡ぎだす言霊。ふわりと、足元から風が舞い上がった。
「古き御風の力よ、我が声に応えん」
 地面を走っていた模様が、風の力に呼応して陣へと姿を変える。そこから、水を流し込んだかのように光が溢れだした。
 ラシュウは静かに成り行きを見守っている。
「風、操る民より、汝の力を乞い願う」
 今一度杖を鳴らして、ミーシャは先端を高く掲げた。
「汝の風を今ここに!」
 淡い光がミーシャとラシュウの体を包み込んだ。閃光のように立ち昇る陣の輝きから、風が沸き起こった。
 それを見てたラシュウは僅かに感嘆した後、強張っていた表情をほっと綻ばせた。
 よし、成功だ。
「……………………お?」
 ラシュウが安堵したのも束の間、ミーシャが気の抜けるような声を上げた。
 刹那、ゴウッと力強い風が吹き荒れた。
「!」
「おおぉっ!?」
 ラシュウの驚きとミーシャの声が重なる。
 体が宙に浮き上がった。
 元々、ラシュウは精霊なので宙に浮いていたが、ミーシャはそうではない。いきなり出現した強風に、成す術もなくバランスを崩してしまう。
 体勢を立て直そうにも下から溢れだしてくる風の力が強くて、どうにもできない。
「お前、あれほど言ったのに――――」
 拳を震わせたラシュウの声は、しかし風の音に紛れて少女の元まで届かない。
「失敗しやがったなぁああああっ!!」
「きゃぁあああああ!!」
 二人の絶叫を巻き込みながら、祭壇から生まれた暴風は空へと駆け上っていった。

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