堕ちた魔物は天を仰ぐ

忘れないで、覚えておいて、その声を、心を

「んで、どうすんの? 来るの? 来ないの?」

 まるで答えを分かりきったような問いかけに、アラスは不敵に笑みを浮かべる。

「行くわけないだろうが!」

 怒号と同時に、両腕を前に向けた。
 呪文を唱えている暇は無い。詠唱破棄。魔力を掻き集めて、前方の敵に目標をつける。

「〈焔帝えんてい〉!」

 ぶわりと生暖かい風が巻き起こった。
 刹那、赤黒い炎が出現し、巨大な虎の姿を成した。
 地獄の業火のようなその炎は低く唸ると、火花を撒き散らせながらその巨体からは想像もできないような速さで駆けた。

「〈水戟〉」

 面白い、と男は術を展開した。
 生成された水の槍は標的を炎の獣に定めると、一直線に飛んでいく。
 獣はその水を避けることなく、男たちに突き進んでいく。水の槍が獣の体を貫くたびに、じゅうじゅうと音が鳴り炎の威力が失ってく。
 しかし、炎は消えなかった。

「っく……守りと護りの水の防御――〈水禦すいぎょ〉」

 流石に焦ったのか、男は急いで防御の術を唱えた。
 最初の炎の威力を失った獣は、唐突に築き上げられた水の壁に激突した。互いの力が衝突し合う。
 しかし、炎と水の相容れない均衡はすぐに崩れた。

「――〈鎖楼波さろうは〉」

 炎の獣も、そして水の壁をも突き破って、黄色の炎が放たれた。
 思いもがけない攻撃に、男は成す術もなくその攻撃をくらった。全身が黄色い炎に包まれていく。
 アラスは〈炎帝〉を消して前に出た。
 目の前の惨状に目を細めつつ、自業自得だと毒づく。

「ぎゃあああああああ!」

 消えない魔術の炎に焼かれて、男が絶叫を上げていた。
 しかし彼の後方にいた男たちは素知らぬ顔で、しかし一人がおもむろに手を上げる。

「……耳障りだ」

 一言。
 次いで紡がれ始めた術にアラスは目を見開いて素早く後退した。


「槌の唸りは雷神の慟哭――〈雷光槌らいこうつい〉」


 術の影響で暗雲が垂れ込み始めた。そこからゴロゴロと低い唸り声のような音が聞こえ始めた瞬間、音を伴わない巨大な稲光が落ちた。
 反射的に目を瞑ったアラスは、術の光が消えた少し後に目を開いた。
 稲光が落ちた場所には、何も無かった。あの、絶叫を上げていた男の姿はおろか、その肉体も、骨さえも無い。
 消滅した、という表現が正しいだろうか。
 アラスは苦虫を噛み潰した表情を浮かべた。

「……なんて馬鹿でかい力持ってるんだ」

 先ほどの攻撃。後退していなければ巻き込まれていた。
 否、巻き込むことを前提で放ったのかもしれない。何せ奴と俺は敵なのだから。

「巻き込まれていればよかったものを」

 ぼそりと呟かれた台詞を、聞き逃さなかった。

「ははっ。悪かったな」

 そう言うと、しかし彼は首を横に振った。

「いや、しぶとく生き残っていても構わん。生け捕りにしろと上からの命令もあるしな」
「行かねえよ」

 何度言わせれば気が済むんだ。
 頬を引き攣らせながらアラスは答える。少女を抱えた男は何も言わず、もう一人の男はふむと頷いた。

「なら仕方ない。連れてこられないようなら殺しておけという命令だ」
「……死ぬ気もねえよ」

 ここで死んだら誰がイクロスを助けるんだ。……ああ、もしかしたらあの小僧が来るかもな。
 ふと頭の中で、いつも無口で無表情のイクロスの友人の顔が思い浮かんだ。いつからだったかは覚えていないが、いつの間にかイクロスの傍にいて、傍にいることが当たり前になってきていた。
 出会ってから間もない頃は驚いたが、いつも一緒にいるようだったから気にしなかった。
 いつも一緒にいてくれる人がいたから、いつも研究に集中できた。

「さっさと俺のお姫さまを返してもらおうか」

 だから、さっさとあいつの元に戻らなくては。
 俺も、イクロスも――――



 ※



 ごうごう。ごうごう。
 ごうごう。ごうごう。
 何かが蠢いている。そんな音が、体の中から聞こえてくる。

「………………ぁ」

 視界は真っ暗。……ああ、そうか目を瞑っているからだ。
 瞼を持ち上げようにも、重く鉛がのしかかっているようで動かすこともままならない。けれど、ゆっくりと時間をかけて瞼を上げると、黒が広がっていた。

「……?」

 身じろぎしようとして、体全体がみしみしと鳴った。鈍い痛みが脳髄まで駆け上り、声にならない呻きが漏れる。
 それに気付いたのか、黒いのが動いた。
 黒い、と思っていたそれはローブだった。回転の遅い脳でぼーっと考えながら、ふと見上げる。
 ローブから覗く顔。生気のないそれに表情はなく、瞳は虚ろでどこを向いているか分からなかった。
 しかし、イクロスを支える腕力はそこそこあるようで。身じろぎはできるものの、暴れることはできなかった。

「…………ッ」

 唐突に、あの音がまた聞こえ始めた。
 耳からではなく、脳内に直接響くような、音。

 ごうごう。ごうごう。ごうごう。

 ごうごう。ごうごう。ごうごう。ごうごう。

 それは段々早く、長くなっていっている気がした。
 言いようの無い不安が襲い掛かってくる。

 ごうごう。ごうごう。ごうごう。ごうごう。ごうごう。

 この音は何だ。一体何が起こっている?

「んで、どうすんの? 来るの? 来ないの?」
「行くわけないだろうが!」

 ふと、耳に届いた声音に、はっとした。
 これは、これは、待ち望んでいた、父の声。
 ゆっくりと顔をずらしていき、声のした方へ向いていく。そこには、怒りに形相を歪ませた父の姿。
 見たことも無いその表情に、思わず息を呑んだ。心臓の音がやけに大きく耳に届く。
 ――知らない。あんな表所を浮かべた、あんな声音をした父は、知らない。
 どうして父は怒っている? 何が、何が、あったの?
 動きたくても動けない体を必死に動かそうとして、息が詰まった。

「ッケホ……」

 咳き込んでから、自分の体がおかしいことに気付いた。
 まるで、火の中に身を投じたような、灼けるような感じに息ができなくなる。指先まで熱くなって、ともすれば意識が飛んでしまいそうになる。
 胸の奥の更に奥で、何かが脈動している。

「……と…………う……」


 とうさん、そう呼びたいのに。

 ごうごう。ごうごう。ごうごう。ごうごう。ごうごう。

 喉にせり上がってくる異物感。何度か咳き込んで吐き出した。

「……っ」

 吐き出したそれは、とても綺麗な赤だった。


「……とう、さん……っ!」

 意識は、そこで途絶えた。



 何かが、聞こえた気がした。

「余所見、よくないですよ」

 慌てて前方を見ると、男が苦笑していた。

「死にたくないと言っておきながら、死にたいんですね」
「うるせえよ」

 聞こえた。確かに、聞こえたんだ。
 あの子の声が。

「退け――――追撃の音〈剣戟光けんげきこう〉〈剣戟閃けんげきせん〉」

「っな、二つ同時だと!?」

 魔術の同時発動は難しい。詠唱には時間がかかるし発動するかどうかも力次第だ。
 だが、その補助となるものがあればそれほど苦にはならない。アラスは常備持ち歩いている指輪に、そっと唇を落とした。
 今は亡き想い人の形見。ずっと離さず、離れず、見守ってくれるもの。

「避けてみな――双戟の宴〈剣戟光閃けんげきこうせん〉」

 二つの魔術は一つの魔術を生み出す。
 これは生み出された魔術。誰も知らない、俺のオリジナルの魔術だ。
 光の閃きが刃の如く男を襲った。器用の男は避けるものの、あまりの数の多さに圧倒されていく。
 光が消えた頃には、男は膝をついていた。

「さあ、イクロスをかえ――――」

 ドスッ、という生々しい音が耳に届いき、言葉が止まった。
 自分ではない、音。膝を突いた男の胸の辺りから、氷の刃が突き出していた。
 背後から、貫かれたのだ。

「……ぁあ…………」

 自分の体を貫く氷刃を見て呆然としていた男は、ごぽりと口から大量の血を吐き出した。同時に、男の体は傾いていく。
 ばたり、と倒れた男の後ろで、少女が立っていた。足元にはもう一人倒れていて、しかしぴくりとも動かない。

「……イクロ、ス?」

 唐突なことに思考が追いつかないまま、無意識のうちに少女の名を呼んでいた。
 するり、と持ち上げられた顔。表情を失ったイクロスを見て、アラスは奥歯を噛みしめた。

「――――……間に合わなかった」

 魔力の暴走。イクロスの持つ力。
 それは、全てを『無』に還す力。

 少女の金色の瞳は緋色に変化し、さらに赤紫へと転じていた。瞳孔は獣のように細く長く、額や肩、腕からは歪な突起が突き出している。
 まだ幼さの残る顔に、表情は無い。虚ろな瞳はどこか遠くを見つめて、心はここに無い。
 そして、溢れ出す緋色の気。それが彼女を包み込んでいた。



 ――それに秘められた力は、強大であり哀しき想いの塊。
 その昔、まだ大陸が一つだった頃にいた一人の魔術師が残したと云われている力は、その『魔術師の魂』とも云われていた。
 魔術師の一族だけに与えられた力。外部には決して持つことを、持ち出すことも許されない“神威カムイ”の力。
 “神威”の力を持つ魔術師は『神をも凌駕する存在』だと云われている。
 その為に、代々“神威”を受け継いでいった術士は“異形”と呼ばれ、恐れられていった。

 そして、それは彼らが暴走を起こすたびに積もり積もっていく。
 その力は強すぎた。生まれ持った身の内に秘める力は、易々と体を喰い破っていく。

 力の侵食は止まらない。術者の魔力を、魂を喰い尽すまで、術者は暴走し続ける。
 それが魔力の暴走。放出を止めないで、魔術を暴発させていく。
 最悪の時は、集落が壊滅状態にまで追い込まれた。

 今回の“神威”の継承者であるイクロスも、一度暴走してしまったら止まらない。力が魔力を喰い尽くすまで暴れ続ける。
 魔力が尽き果てる時、暴走は止まる。
 同時に、イクロスは死ぬ。

 魔力は力であり源だ。魔術師の根本的な部分であり、魔力が無くなれば生きることができなくなる。
 それは魔術師に対して死を意味していた。

「……ごめん、イクロス」

 情けない声しか出てこない。助けると、助けて、あの友人の元へ戻ると、そう思っていたのに。
 動かないイクロスの、力の暴走により変わり果てた姿。
 それは『魔物』と呼ぶに相応しいものだった。

「ごめん」

 動かない彼女に近づき、頬に触る。
 今も力が魔力を食い破っているのであろう……そう思うだけで、ぞっとした。
 頬に触れ、顎のライン、首、肩と徐々にその手を下ろしていく。

「ごめん、ごめん……ッ」

 意識を失ってもなお、『魔物』となってもなお、男たちに襲われていた自分を助けてくれた少女。
 表情すら変えられず、考えるすらできず、何も無い少女。

「…………」

 そっと彼女の顔を両手で優しく包み込んだ。視線を合わせるようにしゃがむと、微笑みを浮かべる。

「イクロス」

 たとえこの声が届かなくなったとしても。

「お願いだ、絶対に生きろ」

 この声を覚えておいて欲しい。

「悔やむな。責めるな。これは……お前のためだけじゃない、俺のためでもあるんだ」

 ――――心よ、届け。
 男は少女の左胸に手を当てると、最後の魔力を振り絞って術を発動させた。

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