堕ちた魔物は天を仰ぐ

幼き日々、まだ何も知らなかったあの頃

 ――――それは数年前のこと。
 カノンたちと出会う前の、イクロスがまだ子供だった頃のこと。

 物心つく前から母はいなかった。
 父に聞いたら「生まれて直ぐにいなくなってしまった」と言われ、それ以上何も告げることはなかった。
 何故……と聞きたかった言葉は、阻まれて。
 結局何も聞くことはできなかったのは、父の哀しげな表情を見たからか。
 その父も、時々父らしからぬ行動をしているのに気付いたのは、いつの日だったか。

 それが自分に関係することだったなんて、気付きたくもなかったけれど。

 全てのはじまりは……イクロスが生れ落ちた瞬間から、はじまっていたのだ。



「トウカー、待ってよーっ!」

 少女が、前を走る少年に向かって叫んだ。
 しかし少年は後ろを振り向いただけで、走る速度を落とさなかった。

「早くしろー」

 そして前に向き直った少年は、先を見据えた。

 そこは、誰も知らない場所。
 正しく言うと、その場所に暮らしている人しか知らない場所。
 西は険しい断崖になっており、その先の崖下には湿地が続いている。北には鬱蒼と緑が多い茂る山々が連なり、南には仄暗い森が、東には草原地が広がる。
 四方を覆われたその場所だけが、唯一、鉢状の窪地になっていた。
 そこにはぽつりぽつりと家々が点々と存在して、ぐるりと簡素な壁が覆う。

 自然に囲まれ、隠れて存在している魔術師たちの集落。
 誰にも知られることなく時は刻み続けていた。

「ま、待ってー」

 はぁはぁと息を切らせながら少女――イクロスは、少年――トウカの後を追う。しかし足の長さが違うからか、どんどん二人の差は開いていくばかり。
 それを遠めに眺めていた集落の住人たちは、畏怖の眼差しのまま口々に呟きをこぼした。

『“異形”だ』
『あの“異形”よ』
『トウカも懲りずによく“異形”といられるな』
『“異形”のくせに』
『あんな“異形”は鎖に繋いでおくべきだ』
『いっそのこと、あんな“異形”は――――』

 莫大な魔力を持つイクロスは、幼い頃から“異形”と呼ばれ、周囲から畏怖の眼差しを向けられて恐れられていた。
 魔術を扱うにはそれなりの知識と力を必要とする。
 それに対し、イクロスは幼いながらも術を扱えるすべを持ち合わせていた。
 その異様なものに周囲の人々からは蔑んだような、恐怖を映した瞳しか向けられず、いつしかイクロスは周りと一線を引いていた。

 いつの頃だったか、それを崩したのがトウカだった。
 独りでいることに慣れていたイクロスは、突如として現れたトウカの存在に最初こそ戸惑っていたが、今は一緒にいるのが日常と化していた。
 それを見ていた周囲の目も訝しげだったものの、今では何の感情も映らなくなっていた。

「っはあー。やっと追いついた……」

 周囲の目がなくなる、唯一の休憩場所に到着したイクロスは、既に腰を落として休憩していたトウカの隣に座る。

「遅かったな」
「トウカが速すぎるんだよっ」

 苦笑を浮かべながら言うトウカに、イクロスは頬をぷっくりと膨らませながら反論した。
 この場所は殆ど知られていない、二人の隠れ場所だ。倒木が数多い中、ひっそりと存在する小さな泉。
 水は蒼く透き通り、底に沈む石も肉眼で見てとれた。ゆらゆらと揺れる水面の下では、仄かな光が舞っている。
 集落の掟では、この場所に近づくことは厳禁とされている。水底から光が舞い上がるこの泉が、神聖な場所だといわれているからだ。
 その光になぞらえてつけられたのが『光護聖腐こうごせいふの泉』という名前。
 その名を意味するは尊敬と、畏怖。
 近づく者には光の加護があると同時に、邪な心が一筋でもあると肉が腐敗するかのごとく消えてしまう、言い伝え。

「落ち着くなぁ」

 ぽつりと落とされた言葉は静かに消えていった。
 こういう時でしか落ち着くことができないイクロスにとって、今のこの時間はとても貴重だった。
 常に気を張り続け、周りを威嚇する。
 そうしなければ周囲の向けられる悪意の視線に、精神がどうにかなってしまうかもしれない。

「なあ、大丈夫か?」

 だからこうして話しかけて、心配してくれるトウカの存在は、とても大きかった。
 彼の問いかけに、イクロスは頷いて返す。

「うん」
「そっか。……今日は、随分多かったから、な」

 ――そう、多かった。
 いつも向けられる視線は多くない。誰もイクロスをそこに在ると見ていないからだ。
 それなのに、今日はそれがいつもよりも多かった。だからか、いつも以上に神経をすり減らせてしまった。
 それに気付いたらしいトウカは、こうして問いかけてきたのだ。

「大丈夫。トウカもいてくれたから」

 彼の顔を見上げながら、無理はしていないと微笑を浮かべる。

「……そうか」

 うん、と力強く頷くと彼は苦笑した。

「そういえば、今日はアラスさんと一緒に帰れるんだっけ?」
「父さん? うん、久しぶりに一緒にね!」

 父は魔術の研究に携わる人だった。
 その為いつも研究室に閉じこもっている。まるで全ての時間をそこに費やしているかの如く、研究室から出てくるのを見たものは少ないと言う話だ。
 魔術に関する何かを調べているらしいのだが、残念なことにどんなことをしているのか教えられたことはない。
 どんなことをしているのか、何を調べているのか……それを知るのは当人だけで。
 それでも、そんな父をイクロスは好きだった。
 時々、父はイクロスを連れて集落の外れにある門の上から夕焼けを眺める。それが父との交流の場だというのに、無意識の内に理解していたイクロスはいろいろな話をする。
 それを父は微笑ましく聞いてくれていた。今日も、そのいつもの夕焼けを見る日。

「遅れないようにしろよ?」
「当たり前じゃない! ……でも、もうちょっとここにいる」

 トウカの肩に自分の頭を乗せたイクロスは、くすりと微笑を浮かべた。
 それを見たトウカは呆れに肩をすくめたものの、彼女のやりたいようにさせていた。



 ※



 太陽が傾き始めて、空が茜色に染まり始めた頃に、イクロスはトウカと別れた。
 二人の秘密の場所を抜けて、あまり人の多くない場所を歩いていつもの門に向かう。
 地理的には集落の東の外れ。そこは唯一、外と通じる門がある場所であった。
 こんな辺鄙な場所に人が来ることは滅多にないが、外の世界に出た魔術師たちが戻ってくる為にある門。閉じられた扉が開かれるのは数年に一回あるかどうかだ。
 その門の上から見える夕焼けは、とても神秘的だ。
 一人早く着いてしまったイクロスは、父の姿が見当たらないことに肩を落とす。

「早く着きすぎたかな……?」

 空は既に茜色に染まっていた。

「んー……先に上ってようかな」

 ひらり、と手を振る。同時に呪文を唱えた。
 さわさわと草が揺れる中で、右手を天に掲げて、左手を自分の胸に添える。

「〈翼風〉」

 ふわり、と風がイクロスの体を覆ったと同時に、その背には小さな浅緑色の翼が生えていた。鷹か鷲のような大きさの翼は、彼女の体とは不吊り合いだった。
 まだ未熟なイクロスの魔術では、その大きさでしか翼を造りだすことができない。
 それでも、人一人浮かび上がらせることのできるこの魔術は高位のものとされ、集落の魔術師でもできるのはイクロスを除いても一人か二人だけだ。
 とんっと地面を蹴って跳ぶ。翼が風を受けて広がった。
 体重を感じさせない勢いで飛び上がったイクロスは、そのまま門の上に足を下ろした。

「んーっ!」

 ぐーっと腕を空に伸ばしながら、背伸びする。
 澄んだ空気が呼吸と共に肺の中に入り、目の前に広がる風景に目を奪われる。
 茜色に染まった空を反映したかのように、大地も茜色に染まっている。草原は黄金色の輝きを放ちながらそよそよと風に吹かれている。
 幻想的だな、と内心思いながら腰を下ろした。

「父さん、まだかな……」

 呟いた言葉が、妙に心を締めつけた。寂しい思いが胸を押しつぶすかのように膨れ上がる。


 一人でいることになれてしまった。

 けれど、いつしか独りでいることに悲しみを覚えてしまった。

 母はいない。父はいつも家を留守にする。付き合いが長いのは、トウカだ。
 彼の母親とは、こっそりと会う。彼の父親がとても厳格な性格で、“異形”と畏怖されているイクロスのことになると烈火の如く怒るのだ。
 会うなんて言語道断だ。
 それを知っているはずなのにトウカはイクロスと会うことをやめないし、彼の母もこっそりとだが、いつも心配をしてくれている。
 一人ではないけれど、独りでいることに幼い心は潰されてしまいそうになったのを癒してくれたのは、二人がいたからだ。

「…………遅いなぁ」

 空は徐々に闇色に転じ始めている。
 待てども待てどもやってこない父に、訝しげに思ったイクロスは集落に視線を向けるも、人影は見えない。
 忙しいのかな、なんて思う反面、それでも一緒にいてほしいと思うのは我儘なのだろうか?
 ぎゅっと胸元を掴み、よく分からない感情をやりすごす。

「早く、早く……」

 寂しいのは嫌だ。
 言葉では言えない思いが、目頭の奥を熱くした。

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