堕ちた魔物は天を仰ぐ

零れ落ちた雫が光を弾く、空が泣いた

「挨拶……してこなくてよかったのか?」

 戸惑う呟きは、少女の頷きで肯定された。

 そこは、集落から離れた辺境の町。町、というよりも村のような、規模の小さい場所。
 穏やかな雰囲気が町全体を包み込み、ピチピチと小鳥がさえずるのが聞こえてくる。幹の太い樹木がいたるところに植えられていて、その木陰にはベンチが設置されており、なだらかな時間を満喫できるような心配りがされていた。
 イクロスたちがこの町を訪れたのは昨日のこと。
 彼女の故郷である集落にいたのは、実質二日だった。朝早くトウカの家を抜け出し、人影もない集落を後にした。
 トウカとその母親には挨拶をしなかった。それは前も同じだったと彼女は言った。挨拶をしなくても彼らは分かってくれていると言われてしまえば、何かを言うこともできない。
 まさかこんなにも早く出るとは思ってもいなかった想起精霊たちは驚きを隠せないまま、しかし少女はけろりとした顔で集落を振り返り。

「いつものこと、だから」

 そう、呟いた。
 そして「それに来年も行く予定だから」と付け足したのだった。

「ところで……」
「なに?」
「あ……いや、うーん……」

 どこか言いよどむカノンに、イクロスは首を傾げる。

「先日のことを、聞きたいんですよね?」

 ふわりと花のように微笑を浮かべたセーレンが、カノンの背後で口を開いた。

 ――先日の出来事。
 歓迎されない集落の人々からの畏怖と恐怖の視線。
 誰しもが遠くから、それこそ腫れ物を扱うような視線を送ってきていた。
 そんな中を無表情で歩き進めていたイクロス。その表情こそ変わらなかったが、金色の瞳には哀しみにも似たものが揺れ動いていた。
 そして彼女の向かった先――――寂れた、墓地。
 そこにはイクロスの叔父が眠る場でもあったのを知ったのは、つい先日のことだった。

 そこで堰を切ったかのように涙を溢れさせたイクロス。
 悲痛な嘆きにも似た声で吐き出された言葉。


「――――私が、あんなことにならなければ……ッ」


 その意味を、涙の理由を、未だ四人は知らない。

「俺らには昔の記憶は無い」
「何故なら、俺たちは造られた存在だからだ」

 カノンの台詞にホルンが続く。
 彼ら――カノン、セーレン、レオン、ホルンは人間ではない。ましてや神というわけでもない。
 人の想いから生まれた存在。
 魔術師の力により創られた想起精霊という存在。

「私たちには記憶はありません。昔のことも分かりません」
「だが、お前には……あるんだろう?」

 あの時見せた、幼い子供が親に縋るような表情。零れ落ちた、悲痛な本音。
 彼女の過去に何があったのか、カノンたちは知らない。彼女と出会ったのは本当に最近で、昔のことは何も知らされなかった。知らなくてもよかった。
 けれども。この間の出来事でそれは変わった。
 知らないでは済まされない。……そんな気がした。

「なあ、お前の過去は……昔に、一体何があったんだ?」

 冷たい風が頬を撫でていった。
 イクロスは歩いていた足をゆっくりと止める。それに習って四人も足を止める。

「……気にするな、じゃ駄目?」

 少女の弱々しい声音に、息が詰まる。
 気にするな、と言われて首肯できるほど大人ではない。
 彼女にとっては聞かれたくない話なのかもしれない。それでも聞かなくてはいけないような気がしたのは、ただ傲慢な己のエゴからか。
 俯いている少女の右腕を、痛いほど強く握る。

「駄目だ」

 否定の言葉。
 それにびくついた肩を見ない振りして、続ける。

「俺たちは、お前のことが…………心配、なんだよ」

 はっとして顔を上げる。情けない表情を浮かべているのを自覚しながらも、イクロスはカノンに視線を向けた。
 いつもとは違った、真剣な表情。動揺しているのだろうか、揺れている朱色の瞳に力はない。
 ゆるゆると横に視線をずらしてく。セーレン、レオン、ホルン……それぞれが、皆カノンと同じような表情を浮かべていた。

「…………」

 言葉が告げず、何かを発しようと開いた口は息を出しただけで閉じられた。
 耳に痛い沈黙が続く。誰も何も言わない……そんな中で、ホルンが口を開いた。

「……無理に、とは言いたくないんだ」

 想起精霊の中で一番落ち着いていて、いつも物事を第三者の目線から見ている、ホルン。どこか三人とは違いどこか余裕のある顔をしている彼は言った。

「俺たちに聞かれたくない内容なんだろ? それか、話したくないほど辛いことなんだろ?」

 彼の問いかけに、イクロスは無言を貫いたまま。
 しかしそれを気にした風もなく、ホルンは続けた。

「でも、俺たちはお前が心配なんだ。召喚された者として…………一人の……友、として」

 ――胸の奥が、熱くなった。
 ホルンの言葉がぐるぐると頭の中を反復している。掴まれている右腕が、妙に温かい。

「……覚えていますか?」

 四人の視線に耐えられず、俯くイクロスの耳に届く優しい声。

「私たちが召喚されたあの日のこと」

 セーレンの言葉に、脳裏で思い浮かぶのはあの時のこと。
 初めて想起精霊の召喚を行った日。失敗するかもしれないという不安の中で、何故だか高揚感が抑え切れなかった。
 魔術を扱うことに必要なのは、己の力量に見合った魔力の調整と術の精密度と、集中力。
 己の持つ魔力の大きさを知らなければ、術との相性よりも前に術を発動することができない。術に必要な魔力を持ち合わせていなければ術は失敗し、反動は己に返ってくる。かといって魔力過多になれば術は暴発し、甚大な被害が出てくる。
 繊細な魔術を扱うには、それなりの力と術を形成する為の精密さ、そして欠かすことのできない集中力が相まって、はじめて完成する。

「覚えてるもなにも、あれは……」

 ――暴発するかと思った。
 想起精霊の召喚は、結果としてみれば成功だった。
 しかしその過程は……危険だった。元来持ち合わせている魔力が多いイクロスは、召喚の際に誤って多すぎる魔力を放出してしまった。気付いた時には魔力を抑えるのに必死で、どうしようもなかった。
 死ぬのかもしれない、そう思った。
 そんな中助けてくれたのが、召喚される彼らだった。当時はそれに気付いた時、相当驚いた。
 形成されていく精霊が、存在を確定する前の彼らが、そんなことをできたのにも驚いた。
 それ以上に助けてくれたことに、驚いた。
 精霊は己の力以上の存在の者の下につく。召喚が失敗するのは、大抵召喚される者が召喚する者を拒否をするからだ。
 自分の力量を知らない者に、力を貸す云われはない。魔術師の間ではそんな精霊の言葉を頭の片隅に置いときながら、召喚をするのだ。
 だから驚いた。暴発未遂なんて、それこそ自分の力をわかっていない者が行う行為だったはずなのに……彼らは、それでも召喚されることを是としたのだ。

「…………私、は……」

 あの時の光景が脳裏でよぎる。
 召喚された彼らを前に、発した言葉。何も出来なかった自分に、彼らは笑いかけてくれた。

「あなたは、私たちに言ってくれましたよね……?」
「『私はまだあなたたちを従える力はないかもしれない。だから、友達からはじめないか?』と」

 目を、見開いた。
 セーレンの後に続いたレオンの台詞。いつだったか自分が言った言葉。
 未熟だから、暴発なんてことをしでかしそうになったから。それでも召喚に応えてくれた彼らと一緒にいたいから。

「ねえ、イクロス様……私たちは、あなたのことが大切です」
「大切だから、聞きたいと思うんだ」

 胸が痛い。セーレンとレオンの言葉が胸を締めつける。

「俺たちには何もできないかもしれないけど」
「話を聞くぐらい、慰めるぐらいできる」

 続けられたホルンとカノンの言葉が、張り詰めていた糸を切った。
 唐突に目頭の奥が熱くなり、ぽろぽろと涙がこぼれてくる。嗚咽を噛み殺して、情けなくて顔を上げることができない。

 慰めてほしいわけではない。
 大切だと思われなくてもいい。

 ……ただ、一緒にいてほしいだけで。

 何かを欲しいと思ったことはなかった。欲しいものは手に入らないと思っていたから。
 あの時を境に冷たくなってしまった心は、緩やかに温かさを取り戻していた。それが彼らを召喚した時からだったのには気付いていた。
 彼らと一緒にいたからこそ、得られたものがある。その得られたもので、彼らに返せるものは……何だろうか。
 己の持つ過去は辛いものだ。それを知ったらきっと彼らは悲しくなるのだろう。だから話したくなかった。聞かれたくもなかった。……悲しみに包まれた顔を、見たくなかったから。

「…………聞いても、おもしろくない、よ?」
「当たり前だ。おもしろかったらおかしいだろ」

 カノンが冗談を聞かせない台詞で返す。

「……聞いても、悲しくなるだけだよ?」
「イクロス様の悲しみを共有したいのです」

 セーレンがにこやかに返答する。

「俺たちはお前と共に在りたい」
「だから、話してくれないか?」

 決定打になる言葉に、胸のつっかえが外れた。
 溢れていた涙が止まり、頬を伝っていた雫を服の袖でごしごしと拭く。そして、顔を上げた。

「ありがとう」

 過去を共有してくれて。
 悲しみを感じてくれて。

「話すよ……私の、過去を」

 悲しみに彩られた昔のことを思い出すのはとても辛いけれど。
 彼らが一緒にいてくれるから、その思い出を話すことができるのかもしれない。
 一人ひとりの顔を見据えて、イクロスは意を決した。

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