人の多い街から離れた、山奥にある草原地帯。イクロスは街道を外れた隠されたルートを辿り、この地に足をつけた。
この場所を知る者は殆どいない。隠された幾つもの道を順番どおりに通らないとたどり着けない土地。
目印は無い。道標も無い。
それなのに道を知ることができるのは、その先にあるものを知っているからだ。
「すっげぇ田舎だよなぁ……」
「五十回目」
カノンの台詞にレオンは冷静に対応する。
街を離れてからこの場所に来るまでに、カノンは先ほどと似たような台詞を五十回繰り返し、レオンはそれを数えていた。
「うるさいですよ、カノン。少しは静かにしなさい」
セーレンがカノンを諫めるのもかれこれ五十回。ホルンがそれを見て肩をすくめるのも……いや、これは五十回以下である。
「あ、カノン止まれ」
「ん?」
レオンと会話――といえるものかは不明だが――をしていたカノンは、急に口を開いたイクロスの言葉を怪訝に思いながらも足を止める。
ふと、レオンに向けていた視線を前に向けた。草原地帯は相変わらず続いているが、どこか違和感を感じた。不思議な感覚を覚えて首を傾げていると、背後でイクロスがくすくすと微笑した。
「気付いた? まあ、少し待ってて」
そう言ってカノンの前に出たイクロスは、左右に手を広げて、円を描くように動かしていく。最終的に地面に左手を空に右手を向けて、瞳を閉じた。
「潜み大地の因果を結び」
イクロスが言葉を紡ぎだした瞬間、空気が変わった。
「変わる空の綻びを繋ぐ」
ざわざわと揺れ始める自然。変貌を始めたこの場所に、四人は呆然とイクロスを見ているだけしかできなかった。
「我、この地より
低くもなく高くもなく。イクロスから発せられる力のある言葉に、それは反応した。
声が空に吸い込まれていった瞬間、大地が鳴動した。さわさわと吹き抜ける風に草花は揺れ、空はさらに青みを帯びたように感じられた。
はっ、とカノンが息を呑む。それは刹那の間に過ぎなかったのだが、遅れてセーレン、レオン、ホルンも目の前の光景に目を見開いて息を呑んだ。
「これは……」
草原地帯が広がっていたはずのその場所は、いつの間にか窪地になっていた。自然に包まれているその場所は、どことなく異様な雰囲気に包まれている。
見ただけで、普通の場所ではないと理解した。カノンは眼前にいるイクロスに視線を向けた。
「ここは?」
レオンが先立って口を開く。疑問の先は――勿論イクロスだ。
「そうか、お前たちは初めてだもんな」
視線で促されて、四人はイクロスの横に立ち並んだ。
そして気付いた。窪地が集落になっていることを。
「ここは……私の故郷だよ」
「故郷……」
緑の大地の中に急な崖が走っている。そして窪地となっているその場所に小さな集落があった。
秘密の場所、とここに来る前にイクロスは呟いていた。存在すら知られていない秘密の集落であるとも。
ここで、イクロスは生まれた。
「なあ、用事って何だよ?」
ふと思い浮かんだ問いかけをすると、イクロスは悲しげに顔を歪め――しかしそれは一瞬で消えた。
「秘密だよ」
見事な即答だったが、その声音は深く、暗い。
少しの間俯いていたイクロスだったが、すぐに笑顔を浮かべた。
「さあ、行くよ」
その笑顔に、四人は押し黙った。
彼女の浮かべる笑顔……それが作ったものであるということに気付いたのはいつの日だったか。もっともよく知る彼女の表情でもあり、何かを堪えている、そう感じる表情でもある。
何を堪えているのか、それを知る術はない。
「ほら、さっさと行くぞ!」
「えっ! お、ま……っ!」
走り出したイクロスに、カノンは咄嗟の判断に遅れた。
ふわり、と風のように崖下に消えたイクロスの姿。呆然とその背を見送ったカノンは、慌てて走り出そうとした。
だが、ガクンと体が後ろに引っ張られてたたらを踏む。
「な、何するんだっ」
「大丈夫だから、落ち着け」
右腕を掴んでいたホルンに怒鳴りつけると、はぁとため息を吐かれた。そしてすぐに返される言葉。
何故、と疑問が沢山浮かんできたが、瞬時にその疑問は消え失せる。
――……一陣の風が崖下から吹き上げた。頬を撫でていった風は、温かい。
同時に鳥のように姿を現した少女を見て、カノンをほっと安堵の息を吐いた。そうだ、そうだった。彼女はこういう奴だった。
「ん、どうしたの?」
肩甲骨辺りから浅緑色の翼を生やした少女――イクロスは、半ば呆然としていたカノンを見て首を傾げた。
「……いや、なんでもない」
「そう? まあいいや。レオンみんなのことお願いね」
ふわふわと浮かんでいたイクロスは一言言い置くと、身を翻して崖下に向かって行った。それを見送る四人は、苦笑を浮かべる。
「何ていうか、驚くことばかりするよなぁ」
ホルンの言葉に、セーレンも同意のまなざしを向けた。
「〈
彼女の背に生えていた翼は、魔術で造りだした〈翼風〉というものだ。風から生み出された翼は軽く、どんなに重いものでも運べる便利さがある。
しかしそれを扱うのには集中力と多大な魔力が必要なのである。どんなに重いものでも運べる、という利点の変わりに、相応の魔力が消費されていくのだ。高位の魔術師であっても〈翼風〉を造れる者は少ない。
イクロスも、そんな数少ない魔術師の一人だ。
「はー……全く、何でもありだな」
「全くだ。では、行くぞ」
ホルンががしがしと頭をかきながら言い、レオンはそれに同意しつつ風を生みだした。
※
「…………」
集落に入ったのはいいのだが、何ともいえない雰囲気に想起精霊たちは立ちすくんでいた。
周囲からの視線、視線、視線。その全てが恐怖もしくは畏怖を表していた。ある者は睨みつけるかのように、ある者は哀しみとも憐れみともとれる視線を――――大半が、まるで監視をするかのように睨みつけていた。
そんな視線をもろともせず、イクロスは歩みを進めていた。慣れているのだろうか、そう思ったセーレンは悲しげに表情を歪める。
微妙な雰囲気のまま住居の集まった場所を通り抜け、とある門の下まで来るとイクロスは足を止めた。
「ごめん、ここで待ってて」
そう言い残して、四人の返答を聞かずに歩き出した。
「…………」
待ってろと言われても、大人しく待っている彼らでもなく。
暫く思考した後、若干の罪悪感を感じながらも四人はイクロスの後を追った。
――――哀しそうな、それでいて自虐的な表情を浮かべた彼女を、放っておくことなんてできない。いつもとは違う雰囲気に、何故だかバクバクと心臓が大きく震えた。
少し歩くと、幾つもの石が見えてきた。表面には何かが刻まれているようだが、雨風によって風化したのか解読は不可能だ。
しかし何となく理解したこの場所の存在に、自然と足を止めてしまった。
ここは――――
「――……墓地、だよな」
確認するようにホルンが言うと、全員が頷いた。
「何で、こんな場所に……」
足音も気配も消して歩き続けると、イクロスが一つの石――墓石の前に座り込んでいるのが目に入った。
近づくこともできない状況に、四人は息を殺しながら彼女を見つめる。
「両親、か?」
「……それは、ないと思います」
彼女の前の墓石が誰のものか。両親という説を浮かべたレオンの言葉を、セーレンが否定する。
「以前イクロス様から聞いたことなのですが……母親はイクロス様が生まれて直ぐに、何処かへいなくなってしまったそうです」
「父親は?」
母親でなければ父親か。しかしセーレンは再び首を横に振る。
「それは……はぐらかされてしまいました……」
暗くなっていく雰囲気に、しかし疑問は次々に浮かんでいくもので。
レオンは焦れったように言葉を続けた。
「じゃあ、誰のだ?」
「――あの墓は、あいつの叔父のものだ」
背後から第三者の声が聞こえ、四人はガバッと振り返った。
そこに立っていたのは長身痩躯の青年。銀色の髪は長く、首の後ろ辺りで一本に括られている。切れ長の真紅の瞳は真っ直ぐイクロスに向けられていた。
「お前は……?」
「ん? 俺か? 俺はトウカ」
カノンの問いかけに、青年――トウカは短く名を述べる。しかしそれ以上何か言うことはなく、口を閉ざした。
それにカノンが訝しげに視線を向けると、ただ微笑を浮かべるだけで何も言わない。
「お前は、一体……」
「あ、トウカじゃん! 久しぶり!」
カノンの言葉は、いつの間にこちらに歩みを進めていたのか、イクロスの声に掻き消された。
墓地という場にそぐわない声が響き渡る。カノンは顔だけをイクロスの方に向けると、大きく手を振りながらこっちに向かってくる彼女の姿が目に入った。
笑顔が貼り付けられた表情に、思わず眉を寄せてしまう。
「……あいつ、まだひきずってんのか……」
トウカの小さな呟きを、四人全員が聞き取っていた。
「いやぁ、本当に久しぶりだねぇ! 元気にしてたかい?」
もうすぐ夜になるということなので、イクロスたちはトウカの家に招かれていた。家に入るとトウカの母が目を丸くして、いきなり抱きついてきた。
というのも、イクロスが郷にいたときからお世話になっていた。本当の母のように振舞う彼女を、イクロスは微笑ましく思っていた。
「いきなり来たもんだからびっくりしたよ! 部屋は空いてるから好きなところを使いな」
この家は元々宿屋として営業している為に、自宅と宿屋が合体している。この郷から離れ外へと旅立っていった者たちは、イクロスを含めてもそう少なくはない。その者たちの家は取り壊されるか他人に渡される。
この郷に帰ってくる者も少ないのだが、イクロスのように時々返ってくる者もいる為、この場所に帰ってきても家が無くて困らないようにとの配慮で、トウカの家系は代々宿屋を営んでいる。
「それにしても何年振りになるかね」
「たしか……ここに帰ってくるのは三年ぶり、ですね」
「そうかい、もう三年になるのか。そりゃあ大きくなるもんだね!」
がしがしと頭を撫で回すトウカの母に、イクロスは苦笑を浮かべた。
ちょうど夕食を作っていた最中にお邪魔したので、イクロスとセーレンは彼女の手伝いをしつつキッチンで話をしていた。
その一方で、カノン、ホルン、レオン、そしてトウカは別室にいた。トウカは半ば強制的に連れてこられた、というのが正しいか。しかし彼は特に抵抗するなく彼らについてきた。
「お前に話がある」
そう口火を切ったのはカノン。トウカは頷いてどうぞと先を促した。
「墓地にいた時……お前はイクロスを見て『まだひきずってる』と言ったよな? どういう意味だ」
「…………」
カノンの質問に、トウカは彼を一瞥したが質問には答えなかった。
「後に分かることだ」
「っ!」
カノンの瞳が険しくなる。ホルンが慌てて彼の腕を引っつかんで抑えるが、今にも攻撃し始めそうな雰囲気だ。
「そう怒るな」
しかし怒りの矛先である彼は素知らぬ顔で受け流す。それが癇に障ったカノンが獣のように唸りはじめた。
「落ち着けって!」
ホルンが抑えつけているが、いつ彼の怒りの限界が越えるか分からない。寧ろ現在進行形で越えるか越えないかの瀬戸際だ。
あきらかに煽っているとしか見て取れないトウカを睨みつけると、彼はやれやれと肩をすくめた。
「そんなに知りたいか?」
「当たり前だ」
カノンの変わりに冷静なレオンが答える。
「それは興味本位か? それとも……」
「本気に決まっている。イクロスは、俺たちの主だ」
試すようなトウカの物言いを遮り、ホルンは噛みつくように低く言った。
「…………」
無言の攻防戦。トウカは三人を順に睨みつけていき、その瞳を真っ向から受ける想起精霊たち。
暫くそれが続いた後、最初に降参したのはトウカだった。ひらりと視線を彼らから逸らすと、キッチンにいるイクロスに向けた。穏やかなその眼差しに、三人は驚きを隠せなかった。
「そんなに知りたいのなら、今夜墓地に行けば分かる」
一瞬だけ視線を向けたトウカは、それだけ言い残すと部屋を出て行った。