体に走った激痛に、イクロスは目が覚めた。
ぼやける視界に何度か瞬きをする。ぼうっとする頭が徐々に冴えていき、はっとして周囲を見渡した。
ここは、どうやら宿のようだ。いつの間にここへ来たのだろうと疑問が浮かびつつ、窓に視線を移す。
外は、日が暮れる頃だった。
「……」
――――油断した。
あの日。相手が“人間だった”からあまり警戒せずに近づいた。
否、人間だと思っていたのだ。
それが命取りとなってしまった。“人間だから”といって、警戒を怠ってはいけなかった。
魔物の中には、人間に化ける術を持つものは少なくない。そういった術を持つ魔物は、人間に化けて不意をついて襲ってくる。
今回の奴ももその術を持っていた。だから不意をつかれ……結果この様だ。
鈍い痛みが腹部を走る。
何とか上体を起こして服をめくると、魔物に負わされた傷跡は既になかった。
どうやら癒しの術を持つセーレンが治してくれたようだ。心の中で感謝の言葉を言うと、ゆったりとした動作でベッドから降りる。傷が少し痛んだ。
「……何処へ、行かれるのですか……」
歩き出した足を止める。ドアの向こう側から聞こえた声に、思わず苦笑を浮かべた。
イクロスからしてみれば、実に久しぶりに聞く声のような気がする。
「別に。……何処だっていいじゃない、セーレン」
「何処でもよくありません!!」
バタンと勢いよく開かれたドアと共にセーレンが入ってきた。イクロスは彼女を一瞥して、視線を逸らす。
「……」
イクロスは窓の外を見ている為、彼女がどんな表情で入ってきたのかは知らない。
彼女の今にも涙が零れ落ちそうなほど潤んだ瞳は、とても弱々しい。雰囲気だけでそれを悟ったイクロスは、しかし何も言えずにただ黙り込むだけ。
暫しの間沈黙が続くと、ふと、イクロスが窓から視線を外した。
「イ……イクロス、様……?」
イクロスの瞳を見た瞬間、セーレンは驚愕した。
それはまるで燃え盛る炎のよう。夕焼けのそれにも似た緋色は、いつものくすんだ金色ではなかった。
「まさか封印が解けるとは思わなかったよ……」
『〈封印の冠〉といえば…………イクロスも、似たようなのつけてなかったか?』
ふと、ホルンの言葉がよみがえった。
その時は断定できなかったのだが……今のイクロスの台詞は、彼の言葉に対して肯定を指していた。
「今のままならいける。……セーレン、止めるなよ?」
「駄目です。表面上の傷は治っていても、完全に治ったわけで、は……」
言葉が言い終わる前に、セーレンはその場に倒れ伏した。淡い燐光がセーレンの体を包み込んで、すぐに消える。
「悪い、ね。私が負けず嫌いなのは君がよく知っているはずだよ。……仕返し、しないとね」
最後の方は、呟きにも似た小さなものだった。
――峡谷に冷たい風が吹いた。
まるであの時のそれに似ていて、背筋を凍らせる。
「あの日みたいだ……」
空を見上げると、星が満面に輝いている。あの日あの時――イクロスが魔物にやられた日も、こんな星空だった気がする。
「さて、いるかな」
軽口のように呟きながら、ひょいひょいと剥き出しの岩の上を跳びつつ、あの魔物を探す。
しかし何処にもその姿は見つからず、表面上だけが癒えた傷が、じんじんと痛み出してきた。腹部をさすりながら痛みをやり過ごしつつ、金の瞳は周りを睨みつけている。
見つからない。そう思っていた矢先、唐突に人影が現れた。
「――――死んでなかったんですねぇ」
「そちらから現れてくれるとはラッキーだよ」
噛み合ってない会話。イクロスは不敵に笑う。
「まだ傷も癒えていないのに来たのですか」
「だから?」
あの日現れた男性――男性の皮を被った魔物は、はニヤリと不気味に口端を吊り上げて嘲笑した。
「それは死を意味するんです!」
魔物が高く跳躍する。イクロスは後ろに飛び退いた。
直前までイクロスの立っていた地面が、轟音と共に抉られる。着地した魔物は、いつの間にかその姿を変えていた。
その姿はまるで大きな鹿のよう。額には二つの枝分かれした太い角があり、緑色の瞳が残虐な光を発している。四肢の先にある二つに分かれた蹄は人の掌ほどの大きさがあり、それに踏み潰されたらひとたまりも無い。
イクロスは舌打ちして表情を強張らせた。
「それが本性か……」
「そんなこと言っていると、すぐに逝ってしまいますよ」
魔物が咆哮を上げると、敏速な速さでイクロスに突進してきた。
イクロスは呪文を唱えながら後方に跳ぶ。
魔物の角がイクロスの体に当たる寸前、空気中に漂っていた水気が急速に集まりだし、水の壁が完成した。
寸での防御壁に、魔物の力がぶつかる。角は水に阻まれてイクロスの体までには届かない。
「そのようなもので、私を止めることはできませんよ…!」
勝ち誇ったような笑みを浮かべると、魔物の力が増大した。角がぶつかっても波紋一つ浮かばせなかった水の壁に、歪みが生じる。
はっと目を見開いたイクロスの目の前で、水の壁はその力を抑えきれずに崩れ去った。
「っ!?」
「無駄だぁ!」
体勢を崩したイクロスはさらに呪文を唱えようと口を開いた。
しかし魔物は地面に着地した瞬間、勢いをつけて体当たりをしてきた。避けることもままならず魔物の体が当たり、イクロスが後方に吹き飛ぶ。
「ぁが……っ!!」
吹き飛ばされたイクロスの体は、そのまま後ろにあった岩にぶつかり、くてんと体が崩れ落ちる。
小さく呻いたイクロスは、一番衝撃を受けた腹部に手をあてた。滲みだす血。口内も鉄の味が広がる。
「傷が、開いたか……?」
「あなたに私を倒すことはできませんよ」
魔物が近づいてくる。カッ、カッ、と蹄の音が段々近づいてきた。
体全体を走る激痛に、奥歯をギリッと噛みしめてやり過ごす。少しだけ和らいだ痛みを無視して閉じていた瞼を開けば、眼前にはニタリと不気味に笑む魔物の姿。
「…っ」
「ふふふ……大丈夫ですよ。痛いのはほんの一瞬ですから」
楽にしてあげますよ。そう言いながら、魔物の蹄がイクロスの左胸――心臓の真上に向けられる。
人の手の平ほどもある蹄に力が加わり、ギシッ、と骨が歪む音が響く。
「あっけないですねぇ……」
どんどん力を入れていく魔物。あともう少しで心臓を潰せる。その時のことを想像すると、快感が脳内を駆け巡った。
「――それは、どうかな」
俯いていたイクロスが、顔を上げてにやりと勝ち誇った笑みを浮かべた。
訝しげな視線を投じる魔物に、イクロスは魔物の脚を掴んで呪文を唱え始める。
「なにぃっ!?」
呪文が完成に近づくにつれ、徐々に膨らんでいく脚。
驚愕に目を見開く魔物。
「や、やめ――――ッ!!」
紡ぎだされた言霊が完成した瞬間、魔物の脚が爆発した。
肉片が辺りに飛び散り、無くなった脚の切断面から真新しい血液がぼたりとあふれ出す。
一瞬にして血溜まりをつくりだした魔物は、ふらふらとしながらも三本の脚で器用に立っていた。
「く、くそ……オノレ……ッ」
魔物が呻き声を上げながら、辺りを見渡す。
――自分の足をこんなにした魔術師は、どこだ! どこだッ! ドコダッ!!!
血走った魔物の目は、すぐに金を見つかった。至近距離で爆発に巻き込まれたからだろう、服はボロボロになり、脚を掴んでいた腕は火傷を負っていた。
倒れ伏すその姿に、嘲笑が浮かぶ。
「ハ、ハハ……魔術師といエド、やハり人間。身を犠牲にしテマデも私を殺そうとは……」
魔物が脚の痛みに耐えながら、笑い続ける。舌の回らなくなった口から漏れる言葉は、人の発する言葉ではなくなってきた。
「――――誰が、死ん、だって……」
笑い続けていた魔物が、ぴたりと止まる。ぐるりと視線を金に戻すと、面白いものを見るように微笑する。
イクロスは腕を支えに立ち上がろうとした。しかし、上体を持ち上げることさえできずに崩れ落ちる。
「死にゾコナイが、悪足掻きもイイ加減にシロ……」
「ハッ。お前、なんかに……負けてなんか、いられないんだよっ!」
イクロスは立ち上がらずに、左腕を魔物に向けた。
「――――〈
詠唱を大幅に破棄した魔術。
イクロスの手の平から黄色の炎が弾け飛んだ。その炎は、まるで鎖のように魔物の体にまとわりついていく。
「ハッ……こレデ何を……」
「それで……お前は、動けない」
嘲笑する魔物に、イクロスは背後にあった岩を支えに立ち上がった。
「仕返し、させてもらうよ」
異様な風が吹き始めた。背筋が凍るほどに強張り、足元からぞわぞわと悪寒が駆け上った。
思わず魔物は後ろに下がろうとし、しかしまとわりつく炎に身を焦がすだけで、動けない。危険信号が体全体に響いているのに、何が、何が。何がこの恐怖を生み出す!?
魔物が驚愕の声を上げた。
「こノ感覚、知ッテイる…!? マサか、おマエはッ!」
「白き輝きは鋭い爪となり猛威の牙となる…………〈
魔物の言葉を遮り、イクロスは咆えた。
力のある言霊が魔術となり、大気中に広がる力を奮い立たせる。
一陣の風が鋭い剣となった。その剣が幾つにも分裂して、刃が標的――魔物に向けられる。
「貴様……まサか――――」
風の剣が、全てを打ち消すように閃いた。
魔物の体に突き刺さる一振りの大きな剣。それに続いて、幾つもの小さな剣が魔物の体を貫いた。
ぼたり、ぼたり、と絶え間なく血を流し続ける魔物は、ゆっくりとその巨体を倒していく。音をたてて倒れた巨体は、完全に動かなくなった。
緑色の目が見開かれたまま、まるでその瞳は嘲笑しているようにも見えた。
最後に言った魔物の言葉が、脳内をぐるぐると駆け巡っている。
「確かに、そうさ。私は――――」
イクロスは魔物に向かって呟いた。もう動くことのない魔物に向かって……――