終話 グランギニョルの泪 2

「……私の、お母さん」

 風神の発した言葉に、ミーシャは耳を疑った。
 何十年も前にミーシャが生まれて、彼女が物心つく前から、彼女の母、フィリアは<風の里>を出て外の世界を旅して回っていた。

 それが彼女の――彼女の一族のさだめだったから。

「さだめ?」

「そう。お主の家系は<風の民>でも特殊でな、外の世界を見て回る<風雲>という別名で呼ばれていた」

 風の如く自由に吹き、雲の如く自由に流れる。世界を見て、その情報を<風の里>に住む民たちに知らせる役目だった。
「そうなんだ。……だから、私は小さい頃から<風技>を教え込まれたのかな?」
「たぶん、そうであろうな」
 わずかな沈黙が流れる。風に吹かれて、巨樹の葉がかさかさと揺れた。

「ところで、なんでお母さんが持っていたものがここにあるの?」

「それは俺にも分からん。……だが、あの日起こったことが関っているのかもしれないな」

 少し余裕を持っていた語調が、いきなり硬くなった。ぴんっと張り詰めた糸のように、その場の雰囲気が変わる。
「あの日……アルセウス島で、貴様はあいつと一緒にいたな?」
 あいつ、というのはラスクのことだ。
「うん」
「その時、風がよどんだ。だが貴様は風の“よどみ”を浄化する方法を知らなかった」
「嫌味のように聞こえるんですが、全くそのとーりですっ」
 あの日、アルセウス島で突然起こった風の<よどみ>。ラスクと一緒にいたミーシャは、風の浄化の方法を知らなかったが、本能と呼ぶべきものが風を操っていたからか、彼女は死ななかった。
 <風の民>は無意識にも風を操ることが出来る。何故かは分からないが。
 そして、ラスクという少年は人間であって<風の民>ではない。風の浄化をすることも出来ない。普通の人間ならば、彼はあの時死んでいた。
 だが、実際に彼は生きていた。――――いや、彼は、人間という種族ではなかったのだ。だから、生きられた。

 魔導師の召喚獣(マガラ)だったから。

「奴は、神をおびき出すためと言った。あの、アルセウス島での出来事もこれに絡んでいたら……」
「お主が狙われていたし、たぶん、メヴィースも狙われているだろうよ」
 風神の鋭い発言に、ラシュウは眉を寄せた。これから、どうすればいいんだろう……。


「ところでラシュウ、いや、ホルノス。痩せ我慢をするでない」

「え?」

「……何のことだ?」

 突発的な風神の発言に、ミーシャは首を傾げ、ラシュウはそっと視線をずらした。
「お主、先ほどの戦いで毒を受けたろう」
「えぇ!?」
 驚愕の事実に、ミーシャは目を丸くしてラシュウを見た。
「気にするな。大丈夫だ」
「阿呆、大丈夫なわけあるか。その毒はかなり強力なものだ。神だからといって(あなど)ってはいかん」
 鋭く睨みつける風神の視線に、ラシュウは瞼を落として何回か深呼吸し、そして瞼を開いた。
「……大丈夫だ」
「はーっ! 本当に自覚が無いんだな。ほれ、立て」
「?」
 風神に言われるまま、ラシュウは立ち上がる。と、額を小突かれた。

「なにを…………っ!?」

 ぐらりと体がよろめいた。目の前の世界が回って、後ろに倒れそうになるのを左足を引いて、何とか体勢を立て直す。
「ラシュウ?」
「ほれみろ。少しは自覚しろ」
「……」
 慌ててミーシャはラシュウのそばに駆け寄り、風神は呆れ顔で嘆息を吐いた。

「その腕の傷。それが原因であろうな」

 ラシュウは視線を自分の左腕に移した。それにつられてミーシャの視線も彼の腕に移る。
 ラシュウの腕には切り傷のようなものがあった。刃物のようなもので切りつけられたよなその傷は、傷口が緑色に変色している。
「人間ならばすでに死に至っているだろうな。神だから、まだ生きていられる……だが、それも時間の問題だ」
「……ラシュウ?」
 傍らに立っているミーシャが心配そうに見上げてきた。
「心配するな。大丈夫だ」
「ミーシャ、そやつの言うことに耳を傾けるな。心配してやらんと、そやつはどんどん内に溜め込んでしまう」
 その言葉に、ラシュウは眉を寄せて風神の方を見た。
「なんか、風伯さまはラシュウのことをよく知っているんですね」
「まあ、仮にも奴の子だからな」
「へぇー、そうなんで…………す、か?」
 ふむふむと納得していたミーシャは、ふと、気づいた。――――い、今、何て言った!?
「あの、もう一度言ってもらえますか……?」
「は? だから、仮にも奴の子だと……」
 ミーシャは目を丸くして、ラシュウと風神を交互に見やった。
「親なんですか! ラシュウが、親!?」
「知らんかったのか? 我はホルノスとメヴィースによって創られた。だから、二人は親同然の存在だよ」
「は、はぁ……」
 それにしてはラシュウに対する口調が違うような……。一応、親なんだよね……?
「ともかく、まずはその傷をどうにかせぬと」
 風神がラシュウの腕を見ながら言った。

「どうするんですか?」

 んー、と顎に手を添えて唸りながら、風神は口を開いた。
「<神の湖>に行くしかないだろうな」
「<神の湖>?」
 二人の話が進むにつれて、ラシュウが目を逸らしはじめる。傷の痛みに耐えているのか、左腕を強く握っていた。
 それを横目で見ながら、風神は話を進める。

「そこに行けば、ホルノスの腕の治療ができるはずだ」

「そっか……良かったー」


「……良くない」

 響いたラシュウの声に、ミーシャと風神は二人そろってラシュウの方を見た。
「こんな傷で俺が死ぬなんて……奴らは絶対に思ってない。罠を仕掛けているに決まっている」
 指先が白くなるまで左腕を強く握る。傷の痛みよりも、心の痛みを耐えているかのよう。
「俺は、もう自分のことで他者を巻き込ませたくない……傷つけたく、ない……」
 ミーシャを見ながらラシュウは吐くように言った。
 見られているのに気づいたミーシャは首を傾げて、ラシュウの視線が自分の体に向けられているのに気づいた。
 双頭の竜との戦いでぼろぼろになった自分の体。服には所々血がついていて、黒く変色していた。
「……私は大丈夫だから」
「俺は、何も出来なった! 戦うことも、守ることもっ!」
 揺れる瞳を隠さず、ただラシュウは叫んだ。
「そんなことないよ! ラシュウは私のことを」
「俺は『ラシュウ』じゃないっ。『ホルノス』だっ」
 ミーシャの言葉を遮ってラシュウが言い放った。言った後、その言葉を出してしまった自分を後悔する。


「……ラシュウは、ラシュウだよ」

 ――それでも、ラシュウはラシュウだ。

 耳に届いた声と、耳の奥で響いた声に、ラシュウは思わず顔を上げた。そして、彼のことを見ていた少女を視線がぶつかる。
「ホルノス神だったとしても、ラシュウはラシュウだよ。他の何者でもない。それに……」
 一旦、ここで言葉を切り、ミーシャは上を見上げた。すがすがしく風が吹き、木々の葉の間から空が垣間見える。


「一人で、何でも背負い込んじゃだめだよ。独りなんて、寂しすぎるよ……」

 ――――独りなんて、寂しいだけだろう?




「! ………………そう、だな……」

 ミーシャの言葉に、ホルノス――ラシュウは、淡く微笑した。それを見て、ミーシャも風神も微笑む。




 吹き始めた風はまだまだ穏やかだった。吹いて、吹き抜けて、少し荒れる。波紋が広がり、大地を駆け抜けていった。
 そしてまた、穏やかに風は吹いた。

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<初稿:06/07/02/改稿:07/05/27>