春のうららかな東風が、緑の丘陵に吹き抜ける。カサカサと音を鳴らす草は、緑に萌えていた。
ほんの数日前はしんしんと雪が降り続き、寒いとしかいいようがなかったのに、今ではもうその寒さも感じられない。そんな小春日和。
吹き抜けた東風の後を追うように、また、新たな風が吹き抜けた。
その中に、二つの影。
「あわっ! ……あわわ!!」
その影の一つから、声がした。
凛とした、未だどことなく幼さの残る高い少女の声。
「……ふうっ…………うわぁっ!!?」
慌てた声の後、地面に『どんっ!』と勢いよく何かが落ちる音がした。
同時に、今まで吹き抜けていた風が、嘘のように止んでいた。
「いたたっ……」
「――貴様は落ちることしか出来ないのか」
草原の中。地面に座りこんでいる――否、地面に落ちた少女は腰をさすりながら、空中に浮かびつつも器用に仁王立ちの格好をしている彼を見上げた。
少女は頬を膨らませて不満を漏らす。
「だから! その『貴様』って言うのやめてよ! 私には『ミーシャ』って名前があるんだから!」
少女――ミーシャは、腰をさすりながらも立ち上がった。鴇色の腰にまで届くような長い髪が、ふわりと揺れる。
「<
「いばってないよ! ……それじゃあラシュウ、そんなに言うならお手本見せてよ」
ラシュウと呼ばれた彼は、嫌そうに顔を歪めた。その背はミーシャよりも小さい。
彼は
「はぁー……。我が主は、自分の召喚した精霊に風の使い方を教えろというのか……。なんとも情けない」
ラシュウがやれやれといった風に嘆息を漏らす。
それを見たミーシャの中で、何かがぶちんと切れた。
「分かったわよ! やればいいんでしょ!!」
ミーシャは苛々と怒りを表しながら、地面に落ちていた杖を拾い上げた。
それは先端が鳥の形をした、ミーシャの背丈をゆうに超す長さの不思議な杖だった。鳥の形をした部分は何の素材を使用しているのか、不思議な光沢を放っている。翡翠と呼ばれる宝石にも似た色をしているが、鮮やかな緑色はとても澄んでいる。
体の前で杖を真っ直ぐに構える。続いて口を開き、言霊を紡ぎだした。
風の民に古くから伝わる、風の歌を。
そして、風を操る技<
「――……すべての風は、時の流れと共にあり……――」
瞑目しながら、杖の先端でとんっと地面を突く。
すると、色の無い風が水の波紋のように丘陵を広がっていった。ふわりと彼女の髪が翻る。
「――――汝の風を今ここに!!」
最後の詠唱と共に、杖を天に掲げた。
直後、杖の先端から浅緑色の風が玉となって現れ、その風の玉は一陣の風となった。ふわりとミーシャの体に纏わりつくと、色が徐々に透明となりやがて見えなくなった。
しかしその風は、彼女の頬を撫でて髪を揺らし、ローブをはためかせて、ここに存在しているという証を見せつけた。
ほっと安堵の息を吐く。
「……できた?」
「まあまあだな」
ミーシャの独り言に近い問いかけに、ラシュウは素っ気無く答える。
「むぅーっ」
彼の言葉に、ミーシャは頬を膨らませた。
できたのだから、少しぐらい褒めてくれたっていいのにと、ミーシャは心の中で思う。
「むくれるな。これからが問題なんだぞ」
彼の一言に、きょとんと少女は目を丸くさせた。
「その風を維持するのと、流れに逆らわないように風を操ること。それから力みすぎると風が暴れるから、それを抑えながらもちゃんと力をコントロールして……――」
ラシュウの口からぽんぽんと言葉が出てくる。そのどれもが風についてで、いつもとは違う彼の雰囲気に驚きを隠せなかった。
思わず笑みがこぼれる。
――……全く……素直じゃないんだから。教えてくれるんだったら、最初からそう言えばいいのに。
「――――おい、聞いているのか?」
くすくすと苦笑しているミーシャに気づいたのか、ラシュウは眉を寄せた。
「聞いてますよ〜」
「せっかく俺が親切に教えてやっているのに……」
ミーシャの言葉を無視して勝手に話を進める。聞いていると言ってるじゃないか。
「まぁ、『百聞は一見に如かず』っていうしなぁ……とりあえず実践か」
「? それってどんな意味?」
「辞典で調べろ」
ラシュウの即答。
一刀両断されてしまったミーシャは半眼になる。
――辞典なんて持ってないよ!
「ほら、集中しろ。集中。風が無くなるぞ」
――そういえば、<風技>を使っていたことを忘れていた。
ミーシャの足下には緑の光が走っている。それは丸い円を描き、その円の内側には複雑な模様が描かれている。
これは、風の魔法陣だ。
この陣により、風の力を操作する。自身の持つ力を陣に注ぎ込み、大気中に存在する風の要素を陣に取り込んで、魔法の力を得た風を放出する。
――――らしい。以前ラシュウに聞いたのだが、如何せん意味が分からずそのままにしてしまった為、今でもあまり理解していない。
とりあえず、風を自在に操ることができるというのは理解したのだ。
「さて、行くぞ」
「……どこへ?」
その返答にラシュウは呆れた。手で顔を覆い、溜め息を吐いている。
「? ……あっ! あぁ〜! ゴメンゴメン。そうだった〜」
ミーシャは苦笑しつつも両手を顔の前で合わせて『ごめん』のポーズをとり、ラシュウに謝る。
「ああ、もういい。いい加減にしないと集中が途切れるぞ………………って、言ってるそばから!!」
そう、いつの間にか風の魔法陣は消えていた。ミーシャの体に纏わりついていた風も、いつの間にか霧散している。
――風というものは、その存在を表現することが難しい。風といえど、無色透明なそれは目に見えるはずも無く。ただそこに『在る』ということだけは分かるのだが、目で『見る』ということはできない。
それ故に操ることは難しい。目に見えないものを『認識』し、そこに『在る』ものとして捉える。
簡単に例えるならば……無色透明な水に、色のついた絵の具を溶かし入れる、という感じだろうか。
だが一度水の色を変えれば、その水を捨てない限りその色をし続けるが……風はそこに在り続ける。在り続ける故に、その膨大な量の色全てに色をつけることは不可能なのだ。一部分を自分の力で色をつける、それが風を操る技。
だから、意識を集中し続けなければその力は霧散してしまう。自身の力が大きすぎる風の力に負けてしまうらしい……これも以前ラシュウに教えてもらった。
「あ、はは……」
「あはは、じゃない! 貴様は集中すらできんのか!!」
ラシュウが完全に怒ってしまったようで、怒号を上げた。そんなことを言われてもこればかりは仕方が無いだろう。
それに彼が話しかけてきたから集中も途切れてしまったのだ。彼にも責任がある……はず。
「だって、ラシュウが話しかけてくるのがいけないんだよ」
思ったことをそのまま言うと、ラシュウは目くじらを立てて怒鳴り返してきた。
「話しかけられても、集中することぐらい出来るだろう!!」
「無茶だよぉ――――っ!」
無意味な言葉の攻防戦が、丘陵に響き渡った。
――……のだが、それもすぐに終了した。
「…………」
「…………」
発言する言葉が無くなったのか、今度は睨み合いに発展した。二人の眼前に見えない火花が散る。
「………………むぅ……分かったわよ……」
長い長い無言の戦いの末に、根気負けしたミーシャは杖を持ち直した。
最初からそうすればいいのに……とラシュウは独りごちるが、集中し始めたミーシャの耳には届かなかった。
心を鎮め、体全体で風を感じ、風に身を投じるように、意識を飛ばす……――
ミーシャは<風技>の詠唱を始める。
力ある言霊を紡ぎだし、地面に杖の先端を突く。再び、風の波紋が丘陵に広がった。
「――――――汝の風を、今ここに!!」
浅緑色の風が、ミーシャを包み込んだ。彼女の足下には先程と同じ風の魔法陣が、太陽の光にあたり淡く輝いていた。
「さて、行きますか」
ミーシャが再度地面に杖を突く。風の波紋が瞬く間に広がり、彼女の体が空中に浮かび上がった。
足下には、幾つもの小さな風の渦が、一箇所に集まり一つの渦となっていた。それは小さな台風とも思える。
「風の流れを読めよ」
ラシュウが言った。彼の足下にも、ミーシャと大きさは異なるが、同じ風の渦があった。
「別にラシュウはそれをやんなくたって飛べるでしょ?」
ミーシャの言うそれ、というのは、ラシュウが今使っている風技<風流>のことだ。
風の精霊は風技を使わなくても風を操る術を持っているので、ミーシャのように使わなくてもいいのだが。
「貴様の手本としてやっているんだ」
半ば睨みつけながら言った。言われた本人はというと、苦いものを噛んだような顔をしていた。
※
風に乗り、緑の丘陵を越え、二人は一本の木が立つ崖に差し掛かった。
崖の先には小さな町が見える。赤煉瓦の屋根を持つ家が連なり、どことなく田舎を感じさせる雰囲気だった。
「やっとだぁ〜」
両腕をぐんっと伸ばしながらミーシャは言った。
「誰かさんが、集中を途切らせなければもっと早くに着いただろうなぁ……」
ボソボソとラシュウが呟く。その表情は、どことなく疲れているようだ。
「何か言った?」
ミーシャは苛立ちを隠せないままラシュウに噛み付く。
「別に」
しかしそんなミーシャを意に介していないラシュウは明後日を見た。無論、ミーシャと目を合わせたくない、というのが本心だろうからとった行動なのだろうが。
「ただ、もうちょっと早く着きたかったな、と思っただけだ」
しかし彼の口は正直者で、心の中で思っていたことを口走った。
カチン。頭の中で、怒りを抑えるストッパーの外れる音が、響き渡った……気がした。
「はっきり言いなさいよ!! こっちだって……――――」
ぐうぅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜。
気の抜けるような音が鳴った。
ミーシャはあわてて自分のお腹の辺りを手で覆う。
音が鳴ってしまったものは仕方がない。仕方がないのだが……これは、とても恥ずかしい。
「……」
顔を赤く染めるミーシャ。今の音で、頭の中が空っぽになってしまった。
「……早く行くか」
「…………うん……」
今までの怒りはどこへやら。二人は<風流>を駆使して崖を降りていった。