キュヘレがその症状に気付いたのはまだ幼い頃のことだ。
いつものように母親と一緒に外へ出かけていた時に、それは突然起こった。何の前触れも無く、ギュッと鷲掴みされたような激痛が左胸を襲ったのだ。
胸をおさえて倒れ込んだ娘に、母親は慌てて治癒院へと駆け込んだ。
幸い、患者がそれほど多くなかったからか、すぐに治癒術師に診てもらうことができた。その頃には胸の痛みも少し落ち着いていたので、キュヘレは痛みのことをあまり深刻には考えていなかった。
「〈魔力欠乏症〉です」
治癒術師の口から出てきた言葉に、母親はもちろんのことキュヘレ自身も驚きのあまり目を丸くした。
〈魔力欠乏症〉。それは体内の魔力が著しく少なくなる症状のことだ。
人には多かれ少なかれ魔力を持ち合わせている。体中を血液が巡るように、魔力もまた体中を巡っているのだ。
そのため、魔術を使った後などに魔力が極端に少なくなると、めまいや貧血、締め付けられるような胸の痛みといった症状が現れる。それが悪化すると手足に痺れが出たり、意識障害に陥ることもあるそうだ。
そして最悪の場合、永遠の眠りについたまま目を覚まさない。
この時はまだキュヘレが幼かったこともあり、たまたま体内の魔力の循環がうまくいかなかったのだろう、という結論に落ち着いた。幼児、特に魔力の量が少ない者は発症しやすいらしく、キュヘレもそれに当てはまったのだろうと治癒術師は言う。
成長するにつれてその症状は落ち着いてくると告げられて、母親は安堵の息を零していた。
――しかし、治癒術師の言葉とは裏腹にキュヘレの症状が落ち着くことはなかった。
成長するにつれて胸の痛みは酷くなり、めまいを起こすようになった。回数も年に数回だったものが半年に数回になり、ここ最近は数ヶ月に二、三回と悪化の一途を辿っている。
どうしたらいいのだろうと、キュヘレは今日も治癒院へ重い足を運んだ。この場所も何度も足を運んでいるからか妙に馴染んでしまった。それがなんだか悲しい気持ちにさせる。
出迎えてくれた治癒術師は一通りキュヘレを診察すると、悲しげに顔を曇らせた。
「もう、ここではその症状を治療できる術師がいない。……近く、もう少し大きい治癒院に行った方がいいだろう」
これまでずっとその症状を看てきた治癒術師の言葉に、キュヘレは諦めにも似た表情を浮かべるしかなかった。
＊
「よう、キュヘレ。今日もしけた面してんな」
かけられた声に、モスグリーンの瞳にウルトラマリンの髪の少女は眉を寄せながらも顔を上げた。
ここはキュヘレが住むライフォンの町にある小さなパン屋。鮮やかなオレンジ色を基調とした内装は、店内に足を踏み入れただけでどこか明るい気持ちにさせてくれる。
キュヘレはこの場所が気に入っていた。店は勿論のこと――先程、声をかけてきた顔馴染みの青年も含めて。
「うるさいわね、生まれつきよ！」
キュヘレはむっとして口を尖らせた。
このやりとりをするのも、もう何度目になるだろうか。軽く受け流すことができればいいのに、彼を前にするとどうしても突っかかってしまう。
――それがどういう感情の元で動くのか、心の中で理解はしていたけれど。
「おーおー、そりゃあ残念なこった」
「シュトレンっ！」
クリムゾンの瞳にダークグリーンの髪の青年――シュトレンは楽しそうに笑いながら、手に持ったトレーを差し出してきた。
「怒らせたお詫びに、新作の試食してかね？」
トレーの上に置かれた白い皿に、一口サイズに切られた赤いパンが載せられていた。美味しそうなパンの表面には、何かの果実を煮詰めたジャムが塗ってある。
今の時期に穫れるのはイリゴの実か、それともミャノレの実か。どちらかの果実を使ったジャムだろう。
彼のクリムゾンの瞳のような色をしたパンをじっと見つめる。ジャムがキラキラと輝いて、とても美味しそうだ。
「まずくはねぇから、ほら、ぱくっと」
キュヘレが手を伸ばさないことを別な意味に捉えたようで、彼は縋るような目つきでこちらを見た。
彼の言葉を疑っているわけではない。彼のパンが美味しいのは毎日食べたいと思う私が保証する。
――……そう、毎日食べたいと思うほどに、彼のパンは美味なのだ。さすがはパン屋の息子。
自分でも何度かパンを焼いたことはあるのだが、どうしても美味しいと思えるものはできなかった。
「いただきます」
キュヘレは一つを手に取って、まず半分を口に入れる。噛み締めた瞬間、果実の甘酸っぱい味が口内を広がった。これは、イリゴの実か。小指の爪ほどの大きさしかない実で、果皮は赤く、皮を剥いた果肉はさらに濃い赤色をしている。酸味よりも甘味が強いこの果実は、生食をしても美味しいがジャムやジュースにしても美味しいのだ。
このパンにはそのイリゴのジャムが表面に塗られており、よく見ればパンの中にも練り込まれているようで、断面には白と赤のマーブル模様が見える。
「……おいしいわ」
正直に思ったことを口にすると、シュトレンの顔が綻んだ。
「まじで！？ よかったあ……今回のはちょっと失敗したかもって心配してたんだ」
本当に嬉しそうな表情を浮かべる彼に、思わず目を瞬かせる。いつも自信満々な彼の口から、そんな言葉が出てくるとは思わなかった。
「失敗？」
思わずといった風にキュヘレが問いかけると、彼はばつが悪そうに頬をかいた。
「おう。ジャムがなぁ……どうも甘ったるくなっちまって」
そう言われて、皿の上に残るパンを見やる。
甘く……そういえば、果実の自然の甘さがあまり無かったような。もう一つ摘まんで口に入れると、何度か噛みしめてから飲み込んだ。
確かに、甘すぎるかもしれない。個人的な好みとしては嫌いではないけれど、これを一般向けに販売していくならば、もう少し抑えた方がいいのかもしれない。
「……どれだけ砂糖を入れたのよ」
彼はたまにとんでもないことをやらかす。大雑把というか、行動が大胆なのだ。
「いやあ、ジャムだから甘くないといけないなーっと思って。どさっと入れた」
どさっと入れた、という彼の言葉に天を仰ぎそうになった。実際にどのくらい入れたのかは分からないが、『どさっと』という表現を使うぐらいだ。たくさん入れたのだろう。
なぜか両肩がどっと重くなった。
「……あなたはアホなのかしら」
ぼそりと、彼に聞こえないくらい小さい声で呟く。
「とりあえず砂糖の量は減らすべきね」
「そうだよなぁ……でも甘さが……」
まだ言うかこの男！
「砂糖の変わりに蜂蜜を入れてみるとか。あとは……確か、レメラの身の絞り汁を入れると、その酸味が甘さを引き立てるって聞いたことがあるわ」
「おお、なるほど！ よし、次作る時にはそうする」
彼はふむふむと頷いた後、にっこりと微笑んだ。
それがあまりにも嬉しそうなものだから、キュヘレは心がほのかに温まっていくのを感じた。
「そしたらまた試食してくれよ？」
――けれども、その言葉を聞いた瞬間、どくんと心臓の鼓動が近くで聞こえた。シュトレンに返事をしなければと思うのに、心は急速に冷えていく。
ああ、嫌だ。考えたくない。
「……どうした？」
キュヘレの様子が変わったことに気づいたのだろう、シュトレンは怪訝な表情を浮かべて問いかけてきた。ちらりと彼を見て、どうしようか苦悩する。
彼に言うべきか、言わないでいるべきか。両親のように心配をさせたくない。
ならば、言わなければいい。
ぐるぐると考えを巡らせて……口を閉ざすという選択肢を、キュヘレはどうしても選べなかった。
一呼吸を置いて決心をつけると、シュトレンを見上げる。
「…………私は、もうここには来られないわ」
「はあ！？」
彼は驚いて目を見開いた後、慌てて手に持っていたトレーを近くのテーブルに置いた。そのままキュヘレに近づいて彼女の手を強く握り締める。
まるで、どこへも行かせないというように。
「なんで！」
このなごやかな時間ももうすぐ終わってしまうのだと思うと、わけもなく悲しみがこみ上げてきた。
キュヘレはシュトレンの顔を見ていられずに、彼の胸元へと視線を落とした。
「〈魔力欠乏症〉になってるの、知ってるでしょう？ この町の治癒院にいる治癒術師じゃ、もうどうにもならないって……まだ決まってないけど、ここよりも大きな治癒院に、行くことになると思うの」
そしたら、もうここへは来られない。
怯えるようにさらに視線を下げると、もう俯くしかなかった。
シュトレンは何も言わない。俯いているせいで彼がどんな表情をしているのかも分からない。
どうしてだろう、急に胸が痛くなった。〈魔力欠乏症〉の痛みではない。胸を押しつぶされるような、切なさ。
その心の痛みに耐えるように、ぎゅっとスカートを握りしめる。
暫く、二人の間を静寂が包み込んだ。キュヘレはだんだん居心地が悪くなり、いっそのこと逃げ出そうかと考えはじめていた。
「キュヘレ」
そこで、やっと彼が言葉を発した。
名前を呼ばれておずおずと顔を上げると、シュトレンがこちらを射抜くように見ていた。
どこか熱を帯びているその瞳に、魅入られる。
「俺と結婚してくれ」
――突然の告白に、心臓が止まるかと思った。
呆然と彼を見つめていたが、混乱していた頭が言葉の意味を理解すると同時に、ぼっと頬が熱くなった。
「っ！？ はあっ！？」
わなわなと体が震え、昂る感情のまま彼に向けて口を開く。
「あああなたは何を言ってるのよ！」
「ん？ ああ、結婚はまだ早いか。俺と結婚を前提に付き合ってくれ」
だが、彼は何事も無かったかのように、至って普通に、これまた予想外の言葉を言い放つ。
「な、な、な……っ」
なにを、馬鹿なことを！
怒りか、それとも羞恥か。真っ赤に染まった顔で、キュヘレは彼に掴みかかった。
「いきなり何を言うのかしら！！」
興奮を抑えきれず、憤りにも似た感情が突き上げてくる。
がくがくと彼を揺さぶれば、さすがに苦しくなったのだろう、表情を歪めた。キュヘレの手をとり、視線を合わせてくる。
「いやあ、実はずっと言おうと思ってたんだけど、なかなかタイミングがつかめなくてな」
「今もそのタイミングじゃないわ！！」
まさか彼は、人のことを馬鹿にしているのだろうか。何故、この場で、そんな言葉が出てくるのだろうか！
「いや、今がそのタイミングだろう」
しれっと何でもないことのように言うシュトレンに、思わず非難の声を上げようとして――それは叶わなかった。
「だって、お前がもうここには来られないって言うから」
一瞬、周囲から音が消える。
言葉を発しようとしたキュヘレの口は、しかし、何の音も出てこなかった。
「……それ、は」
激昂した感情がしぼんでいき、彼を掴んでいた手が、力を無くしたようにするりと落ちる。
シュトレンは憂わしげな表情で、キュヘレを見つめた。
「俺としては、このままお前とお別れは嫌だなって」
だから今言ったんだと言うシュトレンの台詞に、戸惑いを隠せなかった。ぽん、と頭に乗せられた彼の手が、慰めるように撫でる動きをする。
「そんな訳で俺としては付き合ってくれると嬉しいなと」
……なにが、そんな訳なんだ。
ぐるぐると混乱する頭の中に、ただ一つだけ、言えることがあった。
「……ありえないわ」
「ん？」
小さな、震える声は彼の耳には届かなかったようだ。
頭に乗せられた手を振り払う。驚きに固まるシュトレンに、怒声を浴びせた。
「ありえないって、言ってるのよ！」
キッと彼を睨みあげれば、彼は不思議そうな表情で私を見下ろしていた。
「私は、もうすぐ死んじゃうかもしれないのよ。そ、それなの、に、なんで……っ」
怒りは長く続かなかった。勢いのままに怒声を上げ、しかし徐々にその声音は小さくなっていく。息が詰まりそうになり、最後の言葉は自分でも聞き取れないほどにかすれていた。
彼の好意は――嬉しい。嬉しいけれど……だからこそ、その好意を受け取ることはできない。
私が発症した症状は、治らないものではないと治癒術師に言われた。けれど、治らないかもしれない、とも言われたのだ。
このまま治らなければ、緩やかに永遠の眠りを待つだけなんだ。
自覚した途端、世界がじわりと滲んだ。涙がこぼれ落ちそうになるのを、歯を食いしばることで必死に我慢する。
今にも泣きだしそうなキュヘレを見たシュトレンは、痛ましげに表情を歪めた。それは一瞬のことで、すぐに不格好な苦笑に変わる。
「キュヘレのこと、困らせてるな」
彼は、すまないという様な顔つきで言葉をこぼす。
「……そうね」
キュヘレは疲れたように息を吐き出すことしかできなかった。
「でも、俺はお前のことが好きだから。お前が困ると分かっていても……お前のことを愛している気持ちに、嘘をつきたくなかった」
すっとシュトレンが手を伸ばした。キュヘレはびくりと肩を震わせて、一歩後ずさろうとする。
それよりも早く、彼は動いた。
「だから、俺は何度でも言うよ。キュヘレを愛してる」
伸ばされた手が、指先が、キュヘレの頬にそえられた。二度、三度と親指がその頬を撫でて、彼は顔を近づけてくる。
シュトレンが何をしようとしているのか、何となく頭では理解していてた。それなのに逃げることも、振り払うことさえもできなかった。
呆然としたままのキュヘレの唇に、彼は自分のそれを重ね合わせた。
あまりにも優しすぎる、触れるだけの口づけ。
動揺しているキュヘレから顔を離した彼は、してやったりと意地悪い笑みを浮かべた。
そこでようやく正気を取り戻したキュヘレは、慌てて頬にそえられた彼の手を叩き落とした。
「……わたしの話を聞いてなかったのかしら」
声が震えそうになるのを抑えて、しっかりとした口調で言う。そうでもしないと、彼にすがりついてしまいそうだった。
「勿論、聞いてたさ」
「なら」
「最期の時まで俺はキュヘレを愛し続ける」
キュヘレの言葉を遮り、彼は言葉を続けた。
「君はすぐに俺の前からいなくなってしまうかもしれない。でも、俺の心に君はずっといるよ」
……なんて恥ずかしい台詞を事も無げに言い切るのだろうか。言った当人は満足とばかりににこやかな笑顔を浮かべているのが、かんに障る。
――――けれども、心に灯った温かな光を、私は手放せそうになかった。
くちびるに残った彼の感触。触れたのは一瞬だけのはずなのに、長く触れられていたかのように、熱い。
「……気持ちが、重いわ」
はっきりと、嫌味を込めて言う。
だが彼はそれを嫌味ととらなかったようだ。シュトレンの口元が笑みの形を作る。
「これまでの分も含めて、こんなに重くしたのは君なんだけどなー」
何故か、嬉しそうに笑顔を滲ませている。その表情があまりにも綺麗で、キュヘレは頬が一気に熱くなったのを感じた。
慌てて、赤くなったと思われる頬を両の手で隠す。
「どうした？」
キュヘレが動揺しているとわかっているはずなのに、彼は不思議そうに問いかける。
ぷくり、と頬を膨らませた。
「……分かってるくせに」
「俺の自惚れじゃなければいいんだけど、できれば君の口から聞きたいなー……なんて」
にやりとした表情は、いつの間にか困ったそれに変わっていた。眉尻が下がり不安をのぞかせるクリムゾンの瞳に、うっと息を詰める。
そんな表情をするのは、ズルい。
キュヘレは右に左に視線を移し、あーうーと言葉にならない呻きが口からこぼれる。
言えばいい。言ってしまえ。そう心の中で決断を迫っているのに、彼が望んでいるであろう言葉を出すのは……とても恥ずかしい。
そして、まだ、自分に自信が持てないでいた。こんな自分でも、好きでいてくれますか、と。
「あー……キュヘレ？」
優しく名前を呼ばれて、おずおずと視線を上げる。クリムゾンの瞳に写る自分の表情は、なんとも情けないものだった。
「今すぐにって言ったけど、とりあえず考えてくれればいいから。お前も自分のことで手一杯だろうし」
それは、キュヘレのことを案じてその台詞を言ったのだろう。突然の告白に戸惑っている彼女に、時間をくれようとしたのだと、頭では理解していた。
けれども、わき上がってきた感情は――憤怒。
「……ずるいわ」
気付けば、そう口に出していた。
「え？」
焦って、戸惑って、口に出せなかった自分が悪いのかもしれない。それでも、今は彼を悪者にしないと気が済まなかった。
「ずるいわ！ 今が良いって言ったり、考えれば良いって言ったり！ 突然言われたこっちの身にもなりなさいよ！ そんなすぐに答えなんてでるわけないでしょう！ あなた馬鹿じゃないのかしら！！」
息継ぎもせずに一気にまくし立てると、シュトレンはぎょっと驚いて立ちすくんだ。
「え、あ、ごめん……？」
「なんで疑問系なのかしら！ 謝るくらいなら言わないでほしいわ！！ 私の気持ちも考えなさいよ！」
益々怒りがおさまらない。地団駄を踏みながら、彼を睨み上げる。
「え、もしかして好きな奴いる、の？」
すると、何を思ったのかシュトレンは的外れなことを言い出した。
好きな奴だって！？
「いるに決まってるじゃない！！」
反射的に答えれば、シュトレンはかっと目を見開いた。
「なんだと！ 誰だ！？」
まるで目の敵だとばかりに詰め寄ってくる彼に、キュヘレは思わず、叫んでしまった。
「シュトレンよ！！」
あっ、と思った時には遅かった。
慌てて口を覆うものの、それが何の意味も為さないのは、分かり切っていた。
ぽかんとした表情を浮かべていたシュトレンが、喜色に包まれていく。むにゃむにゃと何かを口籠った後、がばっとキュヘレに抱きついた。
「ありがとう！」
「きゃあ！ い、いきなり何をするのかしら！！」
顔を真っ赤に染め上げながら、しかし戸惑いと喜びに包まれた少女は、彼の抱擁から逃れられる術を知らなかった。