田園風景の中にある都市。その名はセウスベルグという。
 周囲を頑丈な城壁に囲まれたその都市には灰白色の石造りの建物が連なっている。物寂しい雰囲気を感じそうだが、都市の中には常緑の樹木や花が飾られているので和やかな空気が流れていた。

 そんな城塞都市じょうさいとしにはセウスベルグ獣騎兵団じゅうきへいだんと呼ばれる組織がある。人に害を成す獣――魔獣を捕らえて馴らし、その魔獣と共に闘う兵士の集団。

 アダルベルトもまたその兵士のひとりとして、相棒の飛獣ラウラと共に飛獣騎兵ひじゅうきへい部隊に所属していた。

夜降よだちに飛ぶ 1

 そいつは突然現れた。

「……え?」
 ふよんふよんと目の前に浮かんでいる小さな魚。どこからともなく現れたその存在に、アダルベルトは驚いて目を丸くした。
 ここはセウスベルグ獣騎兵団の基地内部にある訓練場だ。アダルベルトはここで、自身が所属している飛獣騎兵部隊の先輩であるマウノから訓練を受けていた。
 飛獣騎兵部隊は空戦を主としているが、陸地に降りた時を想定しての訓練も行う。
 その訓練が終わりそうだった時に、それは現れたのだ。
 薄氷のように薄い色をした鱗がキラキラと輝いている、手のひらよりも少し小さい魚。ひれは風もないのにゆらりと揺らめき、黄赤色のつぶらな瞳は真っ直ぐアダルベルトを直視していた。
「呼び出しか」
 だが、小魚の突然の出現に驚いていたのはアダルベルトだけだったらしい。マウノは淡々と言葉をこぼしていた。
「え?」
 呆然としているアダルベルトを見て、マウノは不思議そうに目を瞬かせる。
「なんだ、もしかしてこいつを見るのは初めてか?」
「は、はい」
 アダルベルトがこくこくと頷くと、マウノはおもむろに手を伸ばして小魚の背びれを摘んだ。突然ひれを摘まれた小魚は驚いてぴくりと体を震わせる。その後、ぷるぷると全身を震わせていたかと思った瞬間、バタバタとなりふり構わずに暴れ出した。その動きがあまりにも激しいもので、マウノが慌てて手を離す。
 察するに、この小魚はひれを摘まれたのが嫌だったらしい。マウノの手から逃れると機敏に空中を泳いで、なぜかアダルベルトの頭上に落ち着いた。
 狼狽えるアダルベルトが顔を上げても、視界に入ってくるのは揺らめく胸ひれだけだった。小魚のくせにがっしりと頭を抱え込んでいて動く気配がない。
「こいつはティーモの眷属けんぞくだ」
 何がなんだかわからずに混乱しているところにマウノがそう告げてくる。
 そして、彼の口から出てきた人物の名をアダルベルトは知っていた。
 ティーモは、アダルベルトが飛獣騎兵部隊へ異動することが決まった時に出会った男だ。痩身の男は文官のような佇まいで、彼を初めて見た時には、とても兵士には見えなかったことを覚えている。
 さらに驚いたことに、彼は人ではなく飛獣であることを知った。独特の雰囲気を持つ人だと思っていたが、そもそも人ではなく飛獣だとは思いもしなかった。
 ――飛獣とは、空を駆ける獣のことだ。人を襲う魔獣とは違う、青い世界よりやってくる知性のあるそらの獣。その姿形は鳥や獣の他に、目の前にいるような魚や蜥蜴といった、様々な生き物がいるという。
「覚えておけ。こいつが現れたら呼び出しだ」
 それに、とマウノはまた手を伸ばした。が、小魚は捕まってたまるかとばかりに、ふよんと浮いてそれを避ける。彼も捕まえるのは諦め、指先を小魚の背びれに向けた。
「背びれが赤い。『火急の報せ』だな」
 言われて見やれば、確かにその背びれは鮮やかな赤い色をしている。
「……え、急ぎ?」
 そこでやっと、頭が状況を把握しはじめた。呼び出し――しかも『火急の報せ』らしい――ということは、急いでティーモの元へ向かわなければいけない。
 わたわたと慌てはじめたアダルベルトを見て、マウノは苦笑いした。
「ここは俺が片づけておくから、さっさと行ってこい」
「あ、はい! すみませんがお願いします!」
 勢いよく頭を下げてマウノに後を任せると、アダルベルトは駆けだした。


 ――さて、駆けだしたはいいものの、肝心のティーモはどこにいるのだろう。
 あちらこちら辺りを見回しながら走っているが、早々に見つかるわけがない。どうしようかと悩みはじめた時、頭上にいた小魚がふよんと目の前に降りてきた。
 少しだけ走る速度を緩めると、小魚はアダルベルトの目の前でぐるりと円を描くように泳ぎ、前に向かって泳ぎはじめた。
 おや、と思ったのも束の間、どうやらこの小魚はティーモの元まで案内してくれるらしいと気付いた。
 ――これは助かる。
 小魚を先頭にして足早に歩みを進めていると、やっとティーモの姿を見つることができた。
 彼はまだこちらに気づいていない。
「ティーモ!」
 声を上げて彼の名を呼ぶと、それに気付いたティーモがばっと顔を上げた。アダルベルトを認識した彼は、飛ぶような勢いでこちらに向かってくる。
 彼が目の前にきて立ち止まると、アダルベルトの周りを泳いでいた小魚がティーモに寄っていった。ふよんふよんと宙を漂い、ティーモに挨拶するように彼の周りをぐるりと一周して、忽然とその姿を消した。
「消えた!?」
 ぎょっとして驚きの声を上げてしまう。
「姿を隠しただけだ。まだそこにいるぞ?」
 そこ、とティーモがアダルベルトの顔の横を指し示す。え、と思ったのも束の間、くいっと髪を引っ張られる感覚に、そちらを見やった。
 そこには何もないはずなのに、耳の上辺りの髪の一房が不自然に引っ張られている。
 ……どうやらそこにいるらしい、というのはわかった。わかったのだが、なぜこんなことになっているのだろう。
「懐いているな」
 ティーモは首を傾げて不思議そうに呟いた。
 この飛獣騎兵部隊に入ってからというもの、驚くことと不思議なことが起こることが格段に増えた気がする。
「ところで、俺のこと呼んだ?」
 小魚のことは色々と気になることがあるが、今はそれどころではない。
「ああ、そうだった。ドミニクが呼んでいる」
 飛獣騎兵部隊隊長の名前を出されて、アダルベルトはぎくりと体を硬直させた。彼からの呼び出しとは一体何事だろうか。
「彼は執務室にいるはずだから、早く行くといい」
「……ありがとうございます」
 ティーモに頭を下げて踵を返すと、アダルベルトはドミニクがいるであろう執務室に向かった。

 最上階の奥にある執務室の前に辿り着くと、手早く身支度を整えて扉を叩く。
「アダルベルト・エディン、入ります」
 扉を開けると、ドミニクと補佐官が机を挟んで何やら話し合っている最中であった。ふたりの視線がこちらに向けられて、アダルベルトは慌てる。
「あ、すみません」
 どうやら間の悪い時に来てしまったらしい。そういえば部屋に入る時にも、応答がくる前に扉を開けてしまった気がする。
 やってしまったと青くなりながら一旦部屋を出ようとするのを、ドミニクが引き留めた。
「いい。呼び出したのは私だからな」
 ドミニクは補佐官にいくつか指示を出すと、彼に退室するように促す。いくつかの書類を抱え上げた補佐官は、ふたりに頭を下げると足早に部屋を後にした。
 背後でぱたんと扉の閉まる音が聞こえたのを確認して、改めて頭を下げる。
「呼び出して悪かったな」
「いえ。何かありましたか?」
 ドミニクはその問いには答えずに窓の外を見た。つられて、アダルベルトも窓の外へ視線を向ける。
 太陽は頂点から少し斜めの位置にあった。昼の時間を少し過ぎたくらいだろう。雲が緩やかに流れていてほがらかな良い天気だ。
 ――この空を飛べたら、きっと気持ちがいい。
 そんな他愛もないことを考えていたら、ようやくドミニクが口を開いた。
「突然で悪いが、今日の夜は飛べるか?」
 彼は窓の外を見ながら、そう問いかけてきた。
「……夜間飛行ナイトフライトですか?」
 重ねて問いかけると、やっと彼はこちらを向いて、頷いた。
「今日は鯨がいないからな」
 鯨。その言葉に、アダルベルトはああ、と記憶を呼び起こす。
 ドミニクの言うクジラとは、この城塞都市の上空を泳いでいる飛獣のことだ。巨大な飛獣は、その特性から常日頃城塞都市を護るために空を泳ぎ続けている。
 しかし、ずっと空中を泳いでいることはできない。相棒である人を乗せているということもあり、ある程度の日数を飛んだ後は空から降りて休息をとるのだ。
 そのため、鯨が空にいない時は他の飛獣騎兵部隊が交代で空を翔ている。
「今日の夜の一人が体調を崩してしまってな」
 彼は長くため息を吐いて、やれやれと頭を振った。
「夜は昼よりも視界が悪く危険が増すから、へたな奴を回すこともできない。戦力的に該当するのが……」
「……俺、ですか」
 ドミニクは困ったように、しかしどこかほっとした表情で頷いた。
「人手が足りなくてな」
 飛獣騎兵部隊は万年人手不足で、ひとりでも欠けると空いている誰かが穴埋めに入らなくてはならない。
 今回もそういうことで、穴埋め役にアダルベルトが呼び出されたわけか。
「俺は大丈夫です。いきます」
 そう頷けば、ドミニクはほっと安堵の息を吐き出した。
「悪いな」
「いえ」
「それで、夜間飛行のルートだが」
 ドミニクは机の上に地図を広げた。
「今日の夜間飛行は君を含めて三人だ。それぞれ単騎で飛んでもらうことになる」
 彼は北西、東南、南西と順に指をさしていく。
 どうやら城塞都市を中心に、三つに範囲を分けて飛行するようだ。
「アダルベルトは城塞都市より西南の飛行ルートだ」
 西南方向。
 まさか、と思わず顔を上げてドミニクを見やる。
 彼はにやりと口の端をつり上げて、それはそれは良い笑顔を浮かべた。
「……あまり気乗りしないんですが」
 一応、そんな弁解をしてみる。
「お前なら大丈夫さ。それに、ブリガンドも夜は攻めてこまい」
 やっぱりか、と肩を落とした。
 城塞都市セウスベルグより西南方向へ向かうと大森林があり、その先にはブリガンドという国がある。かの国はこれまでにも何度か攻めてきたことがあり、常に警戒態勢を敷いている。
「ここは半端な奴には任せられん。お前はまだ部隊に入って日は浅いが、力は誰よりも上にある」
 だからこそお前に任せるのだ、と彼は言って、ぱたぱたと手際よく地図を片づけた。
「最近は平穏が続いているから大丈夫だと思うが……まあ、気をつけていけ」
「了解しました」
「飛獣には君から伝えてくれ」
 その言葉を最後にアダルベルトは部屋を辞した。


 執務室を出た後、相棒である飛獣――ラウラを探すために、幾つかある訓練場を覗いてみた。
 しかし、どこにも彼女の姿が見えない。どこにいるのだろうと考えながら、飛獣がいる獣舎近くに差し掛かった時、かすかに彼女の声が耳に届いた。
 そういえば、ここにも訓練場があったと思い出す。ここは獣舎が近いからか、人型をとる飛獣たちが利用していることが多い。もちろん飛獣の相棒である人もここで訓練することはあるが、それ以外の人があまり近寄ることは少ない。
 訓練場に近づくにつれて彼女の声がはっきりと聞こえてくる。それと同時に別な女性の声も聞こえてきた。
 どうやら彼女は誰かと談笑しているようだった。彼女が他の誰かと喋っているのは珍しい。
 できるならばそのままお喋りをさせてあげたいのだが、任務があるから仕方がない。
 そのことに申し訳なさを感じつつも訓練場に足を踏み入れると、隅の方でお喋りしているラウラと女性の姿が目に入った。
「ラウラ」
 近づきながら名前を呼ぶと、彼女はぱっとこちらへ顔を向けた。
「アダルベルト、どうしました?」
 首を傾げて問いかけてくるラウラに、アダルベルトは先ほどのことを掻い摘んで説明する。
「わかりました」
 話し終えるとラウラは頷き、傍らの女性を見上げた。
 女性は表情を変えずに、ラウラを静かに見下ろしている。
「すみません、話の途中で」
 いいや、と女性は首を横に振った。
「構わない。気をつけてな」
「はい」
 ラウラは頭を下げて、アダルベルトの隣にくる。
「アダルベルト、行きましょう」
 ラウラに習って女性に軽く頭を下げると、彼女を伴って訓練場を後にした。
 しばらく歩いてから、そういえばと彼女に問いかける。
「……さっきのは誰? 知り合い?」
 女性が少ない獣騎兵団の中でも、先ほどの女性の顔を見るのは初めてだった。ただ、飛獣であるラウラと親しそうな雰囲気だったから、もしかすると彼女も飛獣なのかもしれない。
 そんなアダルベルトの問いかけに、おや、とラウラは小首を傾げた。どうしてそんなことを聞くの、とでもいうような反応に、逆にアダルベルトが困惑してしまう。
「彼女はダアシェですよ。ほら、ブロニスの相棒の飛獣です」
「えっ!?」
 思わず振り返ってしまったが、既に訓練場からは遠退いてしまっている。
 意志の強そうなきりっとした目つきに気品のある佇まい。醸し出される毅然とした態度は、お調子者のブロニスとは真逆の性格をしていそうだと思った。
 果たしてブロニスと彼女がうまくやれているのか疑問に思ってしまうが、ブロニスのことを考えるとある意味でいい関係になるかもしれない。
「……あいつのアホさも、少しは直るか?」
 ぼそりとこぼしてしまった呟きが聞こえたのか、ラウラが訝しげに見上げてくる。
「何か言いました?」
「いや、なんでもない」
 適当に誤魔化しつつ、アダルベルトは部屋へ戻る足を早めた。

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